流花寨
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「流花寨」の解説
祝家荘戦の後、梁山湖に繋がる五丈河の沿岸に建設された寨。梁山泊の防衛と同時に宋の首都、開封府攻撃の拠点も兼ねる。そのため、建設を推し進めた呉用が特に拘りをみせる。花栄と朱武が地形を考慮して構築した防衛線で守られているが、戦略的価値の重要性から宋軍の執拗な攻撃を受ける。 花栄(小李広) 総隊長。1071年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 75kg。 (水滸伝)元青州軍の将校で、秦明の副官。古くからの宋江の同志であり、軍人の立場を利用して反政府活動の便宜を図っていた。秦明のオルグにも関わるが上官として慕っていたため、その説得には細心の注意を払った。梁山泊加入後も二竜山で秦明の副官を務めていたが、完成した流花寨(りゅうかさい)の総隊長に就任する。 髭の無い美男子で、原典同様に弓の名手。岩を射抜いた際には穆春に手品と疑われたほど。生真面目で堅苦しいところもあるが、部下への思いやりがあるため、同僚や兵士からも好かれている。指揮官としての自分に不安を抱いていたが、二十万一斉侵攻の際に強弓で敵将を討ち取ったことで迷いを振り切った。 最終決戦における趙安の流花寨攻撃で流花寨が壊滅した後、趙安に一矢返そうとするが弓矢が尽き、魏定国と共に趙安に斬りこみ重傷を与える。さらにその手で趙安の首を絞める執念を見せるも討ち取るには至らず、無念の戦死を遂げる。青州に妻子を残しており、息子の花飛麟に「十五歳になったら軍に加える」と約束していたが、それを果たすことはできなかった。 『楊令伝』で遺児の花飛麟が本格的に登場、父親に匹敵する弓の腕を見せる。花栄は息子に手紙で様々なことを教えていた。また、史進は花栄が流花寨の指揮官を務めてから資質を全開にしたと回想し、流花寨で部下を務めた陶宗旺は花栄の言葉がきっかけで自分の技を他人に伝えるようになったと花飛麟に語っている。 朱武(神機軍師) 軍師。1070年生まれ。身長 - 160cm、体重 - 55kg。 (水滸伝)元少華山の賊徒で、陳達・楊春の兄貴分。冷静沈着な性格で体格は小柄で華奢。腕っ節よりも知略が得意。労働の賃金を誤魔化されたため役人を殺し、弟分たちと逃げ込んだ少華山で非道を働いていた賊徒の頭目たちを殺害、首領となった経緯がある。原典同様に史進と出会い、彼を少華山の頭目として迎える。史進が子午山で修業中は弟分たちと共に留守を預かっていた。 梁山泊入山後は呉用の補佐を行い、流花寨の完成と同時に軍師として花栄を補佐する。戦術レベルでの作戦立案・戦況把握に優れ、李俊や童猛ら水軍との連携にも腐心、心身をすり減らしながら激戦が続く流花寨の防御に尽力する。禁軍・地方軍二十万一斉侵攻の最後に、勅命を無視した宿元景の捨て身の突撃を迎え撃ち戦死。 『楊令伝』において呉用が方臘の幕僚として叛乱に加わった際、周囲の評価に押される形で自分の夢だった流花寨の軍師を朱武に任せたことを振り返り、自分が頭でしか戦を考えていないことを再認識している。 孔明(毛頭星) 副官。1077年生まれ。身長 - 185cm、体重 - 80kg。 (水滸伝)元青州軍の下級将校で花栄の部下。孔亮の兄。長身で顔に鋭利な傷がある強面だが、性格は温厚で部下からの信頼も厚い。また、放浪中の郭盛を拾って青州軍に加えた過去がある。花栄の命で生辰綱強奪の際に兄弟で楊志を騙し、梁山泊へ入山。その後は二竜山・梁山泊・双頭山の将校を務める。二竜山で楊志と再会した際は、騙されたことに怒る彼に自身の反国家思想を語り、怒りを鎮めさせた。流花寨の完成後は副官として花栄の補佐を勤める。 童猛と連携して宋水軍の巨大造船所を奇襲した際に部下を逃がすために踏みとどまり、船の火災に巻き込まれて戦死。火達磨になりながら、味方に向かって退却を指示して倒れるという壮絶な死に様を見せた。 『楊令伝』では双頭山駐屯中に郭盛が双頭山ゆかりの将校として話題に挙げ、顔以外は目立たなかったが秦明や花栄に認められていたこと、部下思いのために命を落としたことを呼延凌や部下たちに語っている。 陶宗旺(九尾亀) 将校、工兵隊隊長。1083年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 90kg。 (水滸伝)元農夫。放浪する宋江たちが家に宿泊した際に、学問を教わったことで搾取される現状を知り、反国家思想を抱く。母親が親類の下へ移ったのを契機に宋江一行に加わる。のっそりした外見と物言いだが、洞察力や注意力に優れる。棚田を広げるために考えた石積み作りを得意とし、大原府近郊で宋江一行が官軍に包囲されたときは、山中にしかけた多くの石積みの罠で敵に大打撃を与える。また大原府近郊の戦いでは雷横の死をただ一人目撃し、その最期を強烈に記憶する。 入山後も各寨に石積みを作らせ、工兵部隊を設立した。流花寨完成後は将校として配属され、寨の建設・修繕以外に戦闘部隊の指揮も担当する。流花寨陥落後は本隊に参加、宋江隊の隊長を務める。 (楊令伝)引き続き工兵隊を指揮。洞宮山や新生梁山泊など各拠点の建設に従事する。前作とは異なり戦闘に直接参加をすることは無いが、道路の舗装や土塁の設営など戦闘部隊の支援を行う事も多い。解珍の秘伝のタレのレシピを受け継いでおり、手製のタレを持ち歩いている。相変わらず鷹揚な性格だが雷横の死には未だに憧れと後悔を抱く。 物語終盤で河水の水量異常から大洪水の危険性をいち早く察知。対策として各地に石積みを築くが構築中に鉄砲水に遭い、作業中の石積みから離れなかったために呑み込まれて死亡する。『岳飛伝』でも工兵隊が領内の水抜きで活躍したほか、元部下の馬礼が秦容の南方開拓に参加し工兵隊の技術を駆使して用水路などの建設を担当する。 魏定国(神火将) 将校。1079年生まれ。身長 - 185cm、体重 - 95kg。 (水滸伝)元雄州軍の将校で、関勝の部下。関勝には畏怖に近い思いを抱いていた。雄州軍の頃から同僚だった単廷珪とは親友。粗野で単純な性格だが、曲がったことを許さない。城郭で騒ぎを起こした魯達を捕縛するが、獄中で囚人を扇動する彼に興味を抱き、結果的に魯達と関勝を引き合わせる。思想信条ではなく関勝を慕い、梁山泊に入山。 細かい事に凝る癖があり、官軍時代に火薬を利用した火矢・瓢箪矢(ひょうたんや)を発明した。瓢箪矢自体は威力が小さいため、そのまま実戦には使いにくかったが(関勝や宣賛には惜しいと言われた)、凌振の砲弾など様々な兵器開発に活用される。凌振の砲弾開発に翻弄されるが、自身も乗り気だった。流花寨陥落時に花栄に殉じて戦死。凌振は最終決戦でようやく完成した『瓢箪弾』を発射しながら彼の死に涙した。 『楊令伝』では趙安との決戦前夜、花栄の死に関連して魏定国の最期を呼延灼が花飛麟に語った。なお、瓢箪矢は楊令伝でも奇襲作戦などで用いられ、『岳飛伝』では火薬の容器を改良したものが水軍で使用された。 欧鵬(摩雲金翅) 将校、中隊を指揮。1082年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 85kg。 (水滸伝)元長江守備隊の兵士。鉄槍による頭上への空中殺法が得意技。嫉妬に駆られて上官を殺害し盗賊になる。自分の心の醜さを否定し続けていたが、旅の宋江一行と出会って改心、旅の供に加わる。公式サイトでは「馬麟と気が合う」と記されていたが、実際にはむしろ兄貴分と慕っていた李逵と仲が良かった。 入山後は本隊を経て流花寨に配属され、呂方や魏定国と共に戦う。禁軍・地方軍二十万一斉侵攻における宿元景の攻撃で致命傷を負いながらも意気揚々と引き揚げ、強弓を引く花栄を盾で守りつつ息を引き取った。 『楊令伝』で甥の欧元が登場。彼の父(欧鵬の兄)に欧鵬の戦死を伝えた宋江の手紙を携えて楊令の前に現れ、従者として迎え入れられる。 呂方(小温侯) 将校、中隊を指揮。1086年生まれ。身長 - 173cm、体重 - 62kg。 (水滸伝)官軍の将軍・呂栄の息子。父が無実の罪を着せられ自害。母親も困窮により失い、復讐のため各地を放浪する。やがて父の知己だった索超と行動を共にし、偶然にも林冲の危機を救ったことから梁山泊に加わる。幼い頃から予知のような力を備えており、奇襲の察知に長けている。だが父親の影響から自分の特殊な力を封じようとする。戦闘ではやや興奮ぎみ。原典同様に方天戟が得物で柄を赤く塗っている。 童貫戦の最中に同じ獲物を遣う郭盛と立ち合い、お互いの綽名を決める。流花寨を離れて、解珍・郭盛と新兵の募集を担当した後に本隊へ参加。最終決戦でも予知で夜襲を察知するなど活躍したが、童貫の攻撃から宋江を身を挺して守って戦死する。 『楊令伝』で郭盛は呂方と同じように方天戟の柄を赤く塗っている。方天戟の腕前については呂方に天稟が有り、郭盛の努力を知っていたために手加減してくれたのではないかと考えていた。 郭盛(賽仁貴) 将校。1086年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 60kg。 (水滸伝)元青州軍の兵士で、秦明の従者。病の母を見捨てたならず者の父に反抗し、放浪生活を送っていたとき、孔明に拾われ青州軍に入る。二竜山、本隊を経て流花寨将校となる。二竜山時代には幼い楊令と武術や学問を教えあった事もあり、楊令の大将としての器量を察し、楊令の部下として戦うことを夢見る。楊令が高熱を発した時は、軍令違反をしてまで傍にいようとした。また、楊令の子午山行きにも同行を志願したが秦明に却下された。 柄に小旗をつけた方天戟を得物とし、同じく方天戟を得物にする呂方とは親友であると同時に意識しあう関係にある。聚義庁に名札を持つ人物の中では最も若い世代の一人。最終決戦では呼延灼の下で騎馬隊を指揮、負傷しながらも生き残る。 (楊令伝)調練担当、後に新兵を集めた歩兵部隊を率いる。童貫戦では本寨の防衛を担当する予定だったが、全軍で野戦に参加する(なお彼が率いる一万五千の兵力は最大規模の部隊だった)。多数が新兵の大部隊を上級将校無しで一人で掌握、指揮するなどその統率力は極めて高い。最終局面では一万もの犠牲を出しながらも戦場の中央に留まり続け、童貫軍の動きを封じ込め続けた。童貫戦後の改編で史進に並ぶ軍の重鎮となり、歩兵軍三万(鮑旭の死後は四万)という最大規模の軍を率いる。南宋軍との決戦では戦場の中央に陣取り、重傷を負いながらも劉光世を抑え続けた。そして史進に支えられながら追撃命令を出し、息絶える。 李立(催命判官) 兵站担当。1078年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 60kg。 (水滸伝)李俊の弟分(同姓だが血の繋がった兄弟ではない)。元は掲陽鎮の街道で飲食店(李俊が行う闇塩の密売に関わっている)を営んでいた。闇商売に関わっていたので鋭い人物眼を持つ。李俊達と共に梁山泊入りしてからは、二竜山を経て流花寨の兵站を担当する。 夫を喪った顧大嫂と孫二娘の宴会に巻き込まれ、阮小七と共に酔い潰された事もある。綽名は秦明に付けられたが、意味は理解していない。僅かな不正でも決して許さない厳しさを持ち、不正を働いた盛栄の左手首を落とした。入山以前からの妻がいるが、登場せずその存在のみが語られた程度である。 (楊令伝)引き続き兵站を担当。主に本隊への補給と交易を担当し、河北と江南を行き来する。志とは無縁だが、李俊や死んだ友達のために働き続ける。前作で放逐した元部下の盛栄と再会、彼と梁山泊との繋ぎ役となる。童貫戦後も孟康とともに本隊の兵站を担当する。自由市場の開始後は物資の流通に関わる。 (岳飛伝)引き続き孟康と共に軍の兵站を担当。高齢ではあるが、孟康同様に兵站部隊の将軍格という扱いのため退役できずにいる。盛栄の死に際しては手首を落としたことへの礼を綴った手紙を受け取った。金との講和成立後は金や南宋の各地に秘密の補給拠点を用意する。
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