流血の一月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 10:03 UTC 版)
詳細は「血の日曜日事件 (リトアニア)」を参照 分離独立の動きを加速するバルト三国に対し、ソ連政府は軍事的圧力をかけるようになる。9月にはラトビアに対して軍事介入する。そして、リトアニアへの介入も準備される。 1991年1月8日、KGBの特殊部隊アルファ部隊を含むソ連軍がリトアニアに投入される。 1月10日、ゴルバチョフはリトアニア最高会議に対し、ソ連憲法の回復と反憲法的な立法の撤回を最後通牒的に要求する。 1月11日、軍事介入が始まる。 11時50分、ヴィリニュスのリトアニア国防省を占拠。 12時00分、ヴィリニュス出版センターを包囲・占拠。市民に対し、実弾を発砲し始める。数人負傷。 15時00分、リトアニア共産党中央委員会の建物で記者会見。反独立派の共産党が「リトアニア・ソビエト社会主義共和国国家救済委員会」の設立を宣言し、自らが唯一合法的な政府であると述べた。 16時40分、リトアニア共和国のサウダルガス外相、ソ連外務省にソ連軍の暴力行為について懸念を表明。 21時00分、テレビ中継基地占拠。 1月12日 リトアニア最高会議は徹夜で審議。ランズベルギス、三度ゴルバチョフに電話するが通ぜず。 リトアニア全土から国民が集まり、最高会議ビル、ラジオ・テレビ局、テレビ塔、主要電話局などの重要拠点の守備に当たる。 1月13日 1時50分、戦車および兵士がテレビ塔を守備する市民に発砲、また戦車が市民の列に突入。13人が死亡。ソ連軍兵士の一人が味方の発砲で死亡。 2時00分 ラジオ・テレビ局を襲撃。生放送中のテレビが中断される。最後の映像はカメラに向かってくる兵士の姿だった。 この二回の襲撃が行われている中、独立を支持する大群衆が最高会議ビル周囲に集まる。夜には2万人、朝には5万人に達した。臨時の礼拝所が最高会議ビルの内外に設けられ、祈りがささげられた。人々は独立のスローガンを叫び、民族の歌を歌った。軍用トラックや戦車の車列が近くまで来たが、攻撃はしなかった。 この流血の直後、リトアニア最高会議は全ソビエトと西側世界に向かって、文書で声明を出した。それは攻撃を非難し、外国政府に対し、ソ連が主権国家に対する侵略行為を始めたことを認めるよう求めるものだった。 このニュースに対し、ノルウェー政府は国連に訴えを起こした。また、ポーランド政府はリトアニア国民との連帯を表明し、ソ連軍の行為を非難した。キエフ、タリン、リガなど多くの都市でリトアニア支持の集会が開かれた。1月13日以後、占領は続いたが、大きな衝突はなかった。 西側の報道が入ってくると、ゴルバチョフは厳しい立場に立たされた。2月4日、アイスランドがリトアニアの独立を承認し、外交関係を樹立した。 ゴルバチョフは「労働者と知識人がリトアニア最高会議に反ソビエト放送への反対を訴えたところ暴行を受けたので、彼らがソビエト軍に保護を求めた」と釈明し、ゴルバチョフ自身をはじめ、国防省も内務省も軍に武力行使の命令は出していなかったと述べた。 リトアニアで2月9日に行われた独立の是非を問う住民投票では、9割が独立に賛成した。
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