流罪・追放・蟄居
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「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「流罪・追放・蟄居」の解説
この項目に名を連ねる武将には、関ヶ原における中心人物が含まれている。五大老である宇喜多秀家は西軍の副将として奮戦したが敗北、薩摩へ逃れた。1606年(慶長11年)に発覚し駿府へ連行されたが、正室・豪姫の兄である前田利長と薩摩に匿った島津忠恒(家久)の助命嘆願により、当初斬首を考えていた家康も死一等を減じて八丈島へ流罪とした。五奉行である増田長盛は弾劾状に署名した一人であるが、家康に内通していた。しかし許されず内通の功で死一等を減じられ高力清長が領する武蔵岩槻城へ蟄居となる。徳川秀忠を散々に翻弄した真田昌幸は家康との因縁も深く、家康・秀忠共に死罪とする考えであった。しかし嫡男である真田信之と、その舅である本多忠勝による必死の助命嘆願もあって、高野山へ流罪となった。 このほか小山評定で真田昌幸と共に西軍へ退転した田丸直昌や、石垣原の戦いで黒田如水に大敗した大友義統なども追放、あるいは他家預かりとなっている。預かり先の大名では南部利直が最も多く、石川貞通・岸田忠氏・松浦宗清・宮部長熙の四名を受け取っている。これら大名の子孫の多くは、預かり先となった大名家に仕官し藩士となって家名を残している。 武将名領地石高(石)合戦での動向合戦後の動向備考石川貞通 山城・丹波国内 12,000 大坂天王寺守備 南部利直預かり。 子孫は南部氏に仕官し、盛岡藩士となる。 宇喜多秀家 備前岡山 574,000 本戦 西軍副将。1606年八丈島に流刑。 子孫は八丈島に住し、明治維新後東京へ戻る。 氏家行継 近江国内 15,000 伊勢桑名城守備 細川忠興預かり。 子孫は細川氏に仕官し、熊本藩士となる。 大友義統 (領地なし) - 黒田如水と交戦 秋田実季預かり。 嫡男・義乗は東軍。子孫は徳川氏に仕官し、江戸幕府高家となる。 織田秀信 美濃岐阜 123,000 美濃岐阜城守備 8月23日開城後、高野山に蟄居。 1605年高野山で没、織田氏嫡流断絶。 川口宗勝 尾張・伊勢国内 10,000 山城伏見城攻撃 高野山に蟄居後、伊達政宗預かり。 1606年、徳川秀忠に仕官。子孫は旗本となる。 岸田忠氏 大和岸田 10,000 本戦 南部利直預かり。 子孫は南部氏に仕官し、盛岡藩士となる。 真田信繁 (不明) 19,000 信濃上田城守備 高野山に蟄居。 大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。 真田昌幸 信濃上田 38,000 信濃上田城守備 高野山に蟄居。 領地は嫡男・信之が領有。二男・信繁(幸村)は大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。 多賀秀種 大和宇多 20,000 近江大津城攻撃 越後へ追放。 堀秀政の弟。後に前田利常に仕官し、子孫は加賀藩士となる。 田丸直昌 美濃岩村 40,000 本戦 越後へ追放。 1602年赦免され、蒲生秀行に寄食。子孫は江戸幕府旗本となる。 中江直澄 伊勢国内 10,000 伊勢安濃津城攻撃 伊達政宗預かり。 1603年赦免。 増田長盛 大和郡山 200,000 大坂城留守居 高力清長預かり。 大津城攻撃に陣代を派遣。嫡男・盛次が大坂夏の陣で豊臣方に与し、その咎で1615年自刃。 松浦宗清 伊勢井生 10,000 山城伏見城攻撃 南部利直預かり。 毛利勝信 豊前小倉 60,000 本戦 山内一豊預かり。 嫡男・勝永は大坂の陣で豊臣方に与し、落城時豊臣秀頼を介錯して自刃。
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