流罪・追放・蟄居とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 流罪・追放・蟄居の意味・解説 

流罪・追放・蟄居

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)

関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「流罪・追放・蟄居」の解説

この項目に名を連ねる武将には、関ヶ原における中心人物含まれている。五大老である宇喜多秀家西軍副将として奮戦した敗北薩摩逃れた1606年慶長11年)に発覚し駿府連行されたが、正室豪姫の兄である前田利長薩摩に匿った島津忠恒家久)の助命嘆願により、当初斬首考えていた家康も死一等減じて八丈島流罪とした。五奉行である増田長盛弾劾状に署名した一人であるが、家康内通していた。しかし許され内通の功で死一等減じられ高力清長領する武蔵岩槻城蟄居となる。徳川秀忠散々に翻弄し真田昌幸家康との因縁深く家康秀忠共に死罪とする考えであった。しかし嫡男である真田信之と、その舅である本多忠勝による必死助命嘆願もあって、高野山流罪となった。 このほか小山評定真田昌幸と共に西軍退転した田丸直昌や、石垣原の戦い黒田如水大敗した大友義統なども追放、あるいは他家預かりとなっている。預かり先の大名では南部利直が最も多く石川貞通岸田忠氏松浦宗清宮部長熙の四名を受け取っている。これら大名の子孫の多くは、預かりとなった大名家仕官し藩士となって家名残している。 武将領地石高(石)合戦での動向合戦後動向備考石川貞通 山城丹波国12,000 大坂天王寺守備 南部利直預かり子孫南部氏仕官し盛岡藩士となる。 宇喜多秀家 備前岡山 574,000 本戦 西軍副将1606年八丈島流刑子孫八丈島住し明治維新東京へ戻る。 氏家行継 近江国15,000 伊勢桑名城守備 細川忠興預かり子孫細川氏仕官し熊本藩士となる。 大友義統領地なし) - 黒田如水交戦 秋田実季預かり嫡男・義乗は東軍子孫徳川氏仕官し江戸幕府高家となる。 織田秀信 美濃岐阜 123,000 美濃岐阜城守備 8月23日開城後、高野山蟄居1605年高野山で没、織田氏嫡流断絶川口宗勝 尾張伊勢国10,000 山城伏見城攻撃 高野山蟄居後、伊達政宗預かり1606年徳川秀忠仕官子孫旗本となる。 岸田忠氏 大和岸田 10,000 本戦 南部利直預かり子孫南部氏仕官し盛岡藩士となる。 真田信繁不明19,000 信濃上田城守備 高野山蟄居大坂の陣豊臣方与し戦死真田昌幸 信濃上田 38,000 信濃上田城守備 高野山蟄居領地嫡男・信之が領有二男信繁幸村)は大坂の陣豊臣方与し戦死多賀秀種 大和宇多 20,000 近江大津城攻撃 越後追放堀秀政の弟。後に前田利常仕官し子孫加賀藩士となる。 田丸直昌 美濃岩村 40,000 本戦 越後追放1602年赦免され蒲生秀行寄食子孫江戸幕府旗本となる。 中江直澄 伊勢国10,000 伊勢安濃津城攻撃 伊達政宗預かり1603年赦免増田長盛 大和郡山 200,000 大坂城留守居 高力清長預かり大津城攻撃陣代派遣嫡男・盛次が大坂夏の陣豊臣方与し、その咎で1615年自刃松浦宗清 伊勢井生 10,000 山城伏見城攻撃 南部利直預かり毛利勝信 豊前小倉 60,000 本戦 山内一豊預かり嫡男・勝永は大坂の陣豊臣方与し落城豊臣秀頼介錯して自刃

※この「流罪・追放・蟄居」の解説は、「関ヶ原の戦いの戦後処理」の解説の一部です。
「流罪・追放・蟄居」を含む「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事については、「関ヶ原の戦いの戦後処理」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「流罪・追放・蟄居」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「流罪・追放・蟄居」の関連用語

流罪・追放・蟄居のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



流罪・追放・蟄居のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの関ヶ原の戦いの戦後処理 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS