養蚕・製糸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)
北山村の養蚕は、麓の宮川村、玉川村、永明村に次いで明治初期までに早くも自家用の域を超え民業として成立し、1890年には柳沢製糸場(16釜)が村内に起業して小規模ながら製糸も行われた。養蚕は大正期に最盛期を迎え、村内産業の主力となった。1917年現在で村内農家474戸中99%の469戸が手がけ、のちの茅野市域9か村では宮川村、玉川村に次いで多かった。同年には芹ヶ沢、翌1918年には糸萱の両養蚕組合が発足した。1920年から始まった繭価の下落を受けて各農家は収入減を補おうと収繭量の確保に努め、1923年には6年前の1.7倍近い34,054貫を生産した。 しかし1927年の長野県大霜害を皮切りに同年の金融恐慌、1929年の世界恐慌が直撃して繭価が大暴落した。繭価に連動して米など一般の農産物の価格も暴落したため、各農家は多額の負債をかかえ、県内のほかの農村部と同様に「農村恐慌」と呼ばれる経済混乱状態となった。北山村全体の収繭量は1936年には16,341貫と、ピーク時の半分以下に落ち込んだ。こののち、桑質向上のため諏訪郡養蚕部の指導で品種割合を変えた1933年の桑園改植や、蚕品種の統一、飼育法の改善の効果があらわれ、収繭量は1939年に25,153貫まで回復したが、戦中から終戦直後にかけて再び大きく衰退した。 この間、農家自身が製糸経営を行って利益確保を図る「組合製糸」として1929年12月、北山村・湖東村・豊平村および埴原田区を除く米沢村の4村の養蚕農家で保証責任北山浦生糸販売購買利用組合が設立され、北山村芹ヶ沢区に組合の製糸工場が設けられた。1933年現在の組合員数は570人。工場の規模は釜数108釜、従業員数男子15人・女子119人で、組合員からの供繭量は36,418貫、生糸製造量は3,777貫。諏訪地方の8組合製糸では落合、諏訪中央、四賀に次ぐ規模であった。組合製糸工場は戦後の1950年代まで操業した。 戦後、1948年8月に北山村養蚕農協同組合が発足し、県内養蚕農協と製糸業界の団体交渉で繭価が決定されるようになったことから、村内養蚕は茅野町合併後の1957年にかけて再び活発に行われるようになった。
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