養蚕・林業 → 園芸 → 畑作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 05:44 UTC 版)
「花見山公園」の記事における「養蚕・林業 → 園芸 → 畑作」の解説
江戸時代から信達地方(福島盆地)は国内有数の養蚕地であり、現在の花見山公園を所有する阿部家も養蚕を家業とし、また、山から切り出した木材の販売もしていた。1929年に世界恐慌が始まると、1930年(昭和5年)1月の金解禁により日本にもその影響が及んで、生糸の輸出減少とデフレから生糸の価格が暴落し、昭和恐慌が始まった。阿部家でも、養蚕業での収入減に加えて恐慌による親戚の事業失敗もあり、家と山を手放さざるを得なくなった。 一方、1923年(大正12年)9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)の復興過程で、大日本園芸組合が1924年(大正13年)、東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)の西銀座に開設した日本初の花卉市場である「高級園芸市場」が生産者の好評を博したため、日本各地に花卉市場が開設されるようになり、福島市にも「福嶋生花組合市場」が開場した。また、華道界では1930年(昭和5年)に重森三玲、勅使河原蒼風らが「新興いけばな宣言」を起草し、自由花運動が展開されていった。少しずつ山を買い戻していた阿部家は、このような背景の中で山に自生している花を採って販売するようになり、生け花用の切り花の好調な売れ行きに生計が支えられるようになった。すると阿部家は花の栽培にも乗り出し、鍬1本で山を開墾しながら作付けを広げていった。 1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、阿部家の男子も徴兵されて戦地に赴き、労働力が奪われた。食糧事情が特に悪化した太平洋戦争中には、不要不急の作物である花を栽培すると非国民扱いされるため、統制経済下で麦・豆・芋などを作って供出するようになった。
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