養蚕の奨励
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 20:14 UTC 版)
保子はその聡明さから、皆の生活をより良い方向へと向ける方法を模索した末に、山に自生しているクワに着目した。折しも開拓使は、気候や土地の条件から、その地を養蚕奨励地に定めていた。 保子は、養蚕業への取り組みを始めた。自らカイコの世話や、カイコの餌となるクワの畑の手入れをした。1873年(明治6年)に伊達館ができると、2階に蚕棚を設け、邦成、豊子と共に蚕を育てて糸を紡いだ。家臣の妻たちも、保子の一家総出の行動に触発され、養蚕に尽力した。自ら働き、一粒の米も大切にする保子は開拓民の心の支えとなる。 こうした養蚕事業は、やがて福島県伊達市の養蚕事業の基礎へと繋がっていった。保子はこのように、苦難の中でも人々への協力を惜しむことがなかったっため、自分自身の余暇を楽しむことはほとんどなかった。
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