養蚕・織物産業の振興
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「清水宗徳 (政治家)」の記事における「養蚕・織物産業の振興」の解説
明治維新後、明治政府の制度改革により1872年に名主を含む地方三役が廃止されると、宗徳は戸長兼民事取締役となった。また1870年には、広瀬神社の神官にもなっている。 この時期に宗徳が行った事業として、教育事業がある。維新直後から自宅に近所の子供を集めて教鞭を執り、さらには1873年には広瀬神社の境内に「幼育学校」を創立して、主に神官の育成に努めた。学制の発布によって正式に学校制度が出来た後も、私財を投じて協力を惜しまなかった。 また1875年には、現在の本富士見橋附近に上広瀬村と入間川村(のちの入間川町、現在の狭山市中心部)を結ぶ渡船を開設し、入間川両岸の交通の便宜を図った。この渡船は、最終的に本富士見橋が架けられた1920年まで46年間続いた。 そしてこれらのことを手始めとして、この前後から時代の変化に合わせた入間郡西部地域の産業振興に興味を示すようになり、手広く事業を行うようになって行く。 まず宗徳が眼を向けたのが養蚕であった。当時養蚕は県内のいたるところで行われていたが、農家の副業という側面が強く、特に入間郡地域のものは当時はほとんど産業として成立し得ない状況であった。 宗徳はこの養蚕を産業としてひとかどのものにすることを企図し、早くも1870年に村内の荒地を使い、苗を自費で与えてまでして桑畑を作った。そして1874年には山梨県・長野県・群馬県の養蚕地や製糸場を歴訪。翌1875年に養蚕室を建設して実際に養蚕とその研究を行い、地元住民の参考に供するとともに、見習生を募集して養蚕を本格的に地元に根づかせることに奔走した。 さらに1876年には妻・せきと有志の者数名を前橋の製糸場に派遣して、製糸技術を実習させたのち、村内の河原宿に県内最初の機械紡績工場「暢業社」を設立した。この工場は当時の県令に模範工場として絶賛を受け、政府にも紹介されたほどであった。実際に暢業社の製品は品質が高く、なかんずく生糸は横浜で好評を得た。 これらと並行して、この地域の伝統織物である魚子織(ななこおり)にもメスを入れた。魚子織は入間郡内では広瀬地区が主な産地であったものの、流通経路の関係で中心地の川越に名前を奪われて「川越魚子」として売られ、あくまで広瀬は裏方であった。 これを嘆いた宗徳は、織り手たちに自分たちの村の物産であるという意識を持たせるために技術の鍛錬を行わせ、「広瀬魚子」と呼ばせることから改革を始めた。そして1885年には、織り手が粗製濫造を行って品質を落とすのを防ぎ、さらに改良や販路拡大のために魚子織業者の組合である「魚子織広瀬組合」を創設した。この組合は後に「武蔵白魚子織本場組合」として拡大し、共進会や内国勧業博覧会に出品を行って入間郡の魚子織の名声を全国に広め、宮内省御用の栄誉にあずかることになる。 この後にも、宗徳の養蚕に関する振興事業は続いた。1881年には、当時まだ国内の貿易業者の発達が不充分で、ことごとく外国資本の会社に利益を持って行かれていることに対して異を唱え、「同伸社」という生糸貿易会社を横浜に創業。流通面でも改善を行わんとした。 地元では1886年に蚕糸業組合を結成して組合長に就任。その報酬をもって顕微鏡などの研究機材を求め、研究生を募って養蚕に欠かせない病害虫の研究を開始し、養蚕家にも病害虫の予防法について講義を行った。 これを発展させ、1888年には蚕の改良・飼育と優良な蚕の選出を目的として「公業館」を設立した。当時この地域の蚕は他県から仕入れたものであったが、粗製品が多くせっかくの養蚕振興を阻害していたため、自分たちで一から蚕を育ててその弊を取り除こうとしたのである。 このような功績を買われ、宗徳は1879年に横浜で開かれた共進会の審査員に任じられ、1885年の内国勧業博覧会でも審査官として選ばれた。また他府県の同様の審査会でも審査員として招かれ、東奔西走している。 しかし、養蚕や魚子織の地域産業化・近代化には成功したものの、事業の継続には多くの困難が伴った。暢業社は工場自体の創立資金を県の借入金に頼っていたために経営は苦しく、さらに風水害で建物が大破してしまい、1889年に売却する憂き目に見舞われた。同伸社も銀貨の暴落によって閉鎖せざるを得なくなってしまい、失敗に終わる。また武蔵白魚子織本場組合も、その後魚子織を含む伝統織物の業界自体が急速な不振に見舞われ衰退することになる。 なお1889年には板紙工場を作って製紙業にも進出していたが、東京に大きな製紙工場が出来たため撤退をやむなくされた。また一時、製糸工場に水車を設けたり、牛乳工場も小規模ながら経営したことがあった。 この他1886年からは、都市部での砂利需要の増加に合わせて入間川の砂利採掘事業を行っている。とにかくさまざまな事業に興味を示し、手を出した人物であった。
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