養蚕業の学習
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/21 22:09 UTC 版)
当時の長野県で農業行政に関わる以上、養蚕業とは無縁でいられなかった。ある時上伊那郡主催の農談会に講師として招かれた際、参加者から養蚕、茶に関する質問が相次いだものの、専門外のため何も返答できず、3時間立ち往生したことで面目を失い、養蚕業を本格的に学ぶことを決意した。1883年(明治16年)頃から小県郡塩尻村藤本綱葛方に通い、桑葉の化学分析を行う傍ら、実地で養蚕を学んだ。 1884年(明治17年)4月東京に農務局蚕病試験場が設置されると、県令大野誠の不許可を無視して上京し、主任松永伍作に頼み込み、6月から9月まで顕微鏡による黒痣病の検査法を学んだ。 1885年(明治18年)3月小県郡殿城村柴崎清七方で初めて検査を実施し、以後松永伍作と共に黒痣病対策のため県下を巡回した。
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