栗田永寿 (初代)
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栗田 永寿(くりた えいじゅ、生没年不詳[1])は、戦国時代の信濃国・善光寺の別当、同栗田城主。里栗田ともいう。通称・刑部大輔(諸説あり)。子に栗田鶴寿がおり、鶴寿の子息は二代・栗田永寿を名乗っている[1]。
栗田氏は村上為国の子息・寛覚を祖とする一族[1]。室町時代には栗田に居住し、善光寺一帯を支配する栗田氏(里栗田)の一族と、戸隠の別当を務める山栗田の一族に分立した[1]。天文22年(1553年)に村上義清が甲斐国の武田信玄に敗れて、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃れると、永寿もこれに追従する。しかし弘治元年(1555年)調略に応じて武田方に寝返り、武田に属して軍役60騎の足軽大将となって旭山城に寄った。
永禄元年(1558年)に信玄が甲斐国板垣郷(山梨県甲府市善光寺)に甲斐善光寺を創建すると、永寿もこれに伴って本尊を奉じて板垣郷へ移住する。永禄11年(1568年)子の栗田鶴寿が甲斐善光寺を継いでいるので、隠居したものと思われる。
その後の動向は不明だが、水戸藩考彰館に伝わる栗田氏の系譜によると、慶長4年(1599年)に没したとされる。
脚注
参考文献
- 鈴木将典「栗田永寿(初代)」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
関連項目
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