寄親寄子制とは? わかりやすく解説

寄親・寄子

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 22:20 UTC 版)

寄親・寄子(よりおや・よりこ)とは、中世日本において親子に擬制して結ばれた主従関係あるいはこれに准ずる保護者・被保護者の関係。保護する側を寄親(よりおや、指南・奏者)、保護される側を寄子(よりこ、寄騎与力)・同心)とも呼ぶ。『日葡辞書』では寄親は「ある主君の家中とか、その他の所とかにおいて、ある者が頼り、よりすがる相手の人」、寄子は「他人を頼り、その庇護のもとにある者。あるいは他の配下にある者」と解説されている。原則的には寄親・寄子関係は私的な契約関係によったが、戦国時代においては半ば強制的なものになっていった。


  1. ^ 山梨県及び武田氏の影響下にあった長野県では現代に至るまで非血縁の擬似的親子関係である親分子分慣行の習俗があり、武田氏研究においても服部治則がこの習俗の起源を寄親・寄子制に求め、近世地誌や系譜資料により上層家臣団と地域武士団など非血族で階層の異なる氏族の同族関係を考察している。
  2. ^ 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨木市史年報』第115号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P177-186・191-192.


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寄親寄子制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

武田信玄」の記事における「寄親寄子制」の解説

軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的に武田氏直属する寄親と、寄親付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く注意が必要である。また、地域武士団血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であった考えられているが、集団丸ごと親族衆の下に同心様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団前者の例は先述武川衆後者の例は小山田氏配属されていた九一色衆上げられる寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団一部譜代家臣団でありながら同心寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころ侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合あり、かなり大きな権限持っていたと考えられている。全体として大きな領地持っている一族である例が多く地主的な発言権とは不可分あるようである。また、一方指揮官北信濃春日虎綱上野内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍指揮統率する権限有している場合もある。 寄子制度的には最も数が多くなる譜代家臣団・外様家臣団大部分である。平時には名主として領地有し居住する地域領地中に「又被官武田氏から見た表現被官被官と言う意味)」と記される直属部下を持つ。寄親一人の下に複数寄子配属され一軍団を形成する武田関係の資料では先述たように同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物寄子である場合もあり、言葉そのもの状況によって使い分けられていたようである。 この複雑さを示す例として「信玄被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられ曲淵吉景挙げられる信玄被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方同心である以上は寄子として扱われている。信玄被官である以上、知行信玄から与えられる一方合戦時の指示信方から与えられると言う事になる。この例の曲淵は他者同心であるが、信玄直属同心と言える立場人物ももちろん存在していた。 もっとも現代のように一字一句こだわった表現当時されていたかどうかは判断難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍など単語だけ取り出す事によって混乱助長されている面は否定できないまた、中尾郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物複数寄親配属されている場合があり、複数の郷に領地持っている人物寄子同心存在するなど、一概に地方一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究困難にさせている要因一つである。 なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容かかわらず寄子はまず寄親訴え出る事が規定されている。寄親対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える信玄家臣との間の些細な諍い義信事件など家中動揺を招く事件に際しては、忠誠誓わせる起請文提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯保たれていた。また、信玄寵愛する衆道相手春日源介(「春日源介」の人物比定不詳。)に対して浮気弁明を記す手紙誓詞天文15年1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。

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寄親寄子制

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武田信玄の家臣団」の記事における「寄親寄子制」の解説

軍事制度としては寄親寄子制であった基本的に武田氏直属する寄親と、寄親付随する寄子の関係である。寄親寄子制である為、中集権的な統率行われていない。兵農分離以前武士の体制であり、後の徳川家親衛隊で、江戸時代通じて半農武士の生活を続けた八王子千人同心色濃く受け継がれることになる。

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