寄親・寄子
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寄親・寄子(よりおや・よりこ)とは、中世日本において親子に擬制して結ばれた主従関係あるいはこれに准ずる保護者・被保護者の関係。保護する側を寄親(よりおや、指南・奏者)、保護される側を寄子(よりこ、寄騎(与力)・同心)とも呼ぶ。『日葡辞書』では寄親は「ある主君の家中とか、その他の所とかにおいて、ある者が頼り、よりすがる相手の人」、寄子は「他人を頼り、その庇護のもとにある者。あるいは他の配下にある者」と解説されている。原則的には寄親・寄子関係は私的な契約関係によったが、戦国時代においては半ば強制的なものになっていった。
- ^ 山梨県及び武田氏の影響下にあった長野県では現代に至るまで非血縁の擬似的親子関係である親分子分慣行の習俗があり、武田氏研究においても服部治則がこの習俗の起源を寄親・寄子制に求め、近世地誌や系譜資料により上層家臣団と地域武士団など非血族で階層の異なる氏族の同族関係を考察している。
- ^ 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨木市史年報』第115号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P177-186・191-192.
- 1 寄親・寄子とは
- 2 寄親・寄子の概要
寄親寄子制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。 寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。 寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。 この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。 もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。 また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。 なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。 信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。
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寄親寄子制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:41 UTC 版)
軍事制度としては寄親寄子制であった。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。寄親寄子制である為、中集権的な統率は行われていない。兵農分離以前の武士の体制であり、後の徳川家親衛隊で、江戸時代を通じて半農半武士の生活を続けた八王子千人同心に色濃く受け継がれることになる。
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