信玄公旗掛松碑とは? わかりやすく解説

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信玄公旗掛松碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 14:20 UTC 版)

信玄公旗掛松事件」の記事における「信玄公旗掛松碑」の解説

日野春駅前広場の南東側一角には、仙台石で造られた高さ約4メートル石碑、「信玄公旗掛松碑」が建てられている。これは枯死原因が、国側の不法行為権利の濫用であると、大審院認められ勝訴したことを記念して清水倫茂本人により建てられたものである建設費用建設当時昭和8年)の価格148であった石碑の裏面には、次の文字刻まれている。 信玄公旗掛松碑 明治三拾六年敷設中央線鉄条僅間余常吹付煤烟及水蒸気尚以震動為之使樹齢短縮法之所認也這般碑建跡伝後世 大正十一五月三十日 従六位弁護士藤巻一郎古屋英書 所有者甲村清水倫茂建之 石工古屋政義 現代明治36年敷かれ中央本線線路は、松樹からわずかしか離れておらず、常に、煙や水蒸気吹き付けそのうえに振動加わった。そのために松樹寿命短くなったことは、法の認めたところである。このことを松樹の跡に碑を建てて後世伝える。 石碑の建立計画は、大審院判決により清水勝訴した1919年大正8年)頃から始まった石碑文面には大正11年1922年5月30日記されているが、これは弁護士藤巻一郎によって書かれ撰文日付である。実際に石碑建立されたのは、1933年昭和8年4月28日に、清水倫茂が日野春警察署石碑建設許可願い出て翌月5月15日許可下りた1933年昭和8年)のことであった清水倫茂は石碑の建立から3年後1936年昭和11年)に亡くなり、ともに闘った弁護士藤巻一郎1946年昭和21年)に亡くなった大審院勝訴後の示談過程持ち上がった石碑建立の経緯について、当時新聞記事清水倫茂の発言引用し次のように報じている。 原告清水氏元来鉄道院より金を取らんとする目的にあらざれば…、たとえ松樹枯死してその形影止めさるに至るも後世まで旗掛け歴史をつたえんとの希望にて損害賠償としてその建設方を示談条件として鉄道院交渉した。 — 大正8年6月2日山梨毎日新聞清水倫茂にしてみれば賠償金受け取ことよりも、法によって「松樹枯死責任」が鉄道院側(国)にあったと、公に認められたことのほうが嬉しかったのである。 この石碑は、枯死した信玄公旗掛松跡に建立されたものであったが、1969年昭和44年)の中央本線複線化工事際し石碑複線化予定用地かかってしまったため、当時国鉄により国鉄自らの経費によって丁重に現在地移設された。国鉄当局考え方信玄公旗掛松事件当時鉄道院時代とは全く変わっていることがわかる。 1964年昭和39年)に甲府駅から上諏訪駅までが電化され給水の必要もなくなった今日中央本線では、日野春駅停車する列車各駅停車のみとなり、同駅に立ち寄る人も少なくなった。しかし、今後もこの石碑日本裁判史上記念すべきモニュメントとしての役割果たし続けであろうと、民法学者川井健述べている。

※この「信玄公旗掛松碑」の解説は、「信玄公旗掛松事件」の解説の一部です。
「信玄公旗掛松碑」を含む「信玄公旗掛松事件」の記事については、「信玄公旗掛松事件」の概要を参照ください。

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