信玄公旗掛松碑
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日野春駅前広場の南東側の一角には、仙台石で造られた高さ約4メートルの石碑、「信玄公旗掛松碑」が建てられている。これは枯死の原因が、国側の不法行為、権利の濫用であると、大審院で認められ勝訴したことを記念して、清水倫茂本人により建てられたものである。建設費用は建設当時(昭和8年)の価格で148円であった。石碑の裏面には、次の文字が刻まれている。 信玄公旗掛松碑 明治三拾六年敷設中央線之鉄条去樹僅間余常吹付煤烟及水蒸気尚以震動為之使樹齢短縮法之所認也這般碑建樹跡伝後世 大正十一年五月三十日 従六位弁護士藤巻嘉一郎撰 古屋邦英書 所有者甲村清水倫茂建之 石工当村古屋政義 現代訳 明治36年に敷かれた中央本線の線路は、松樹からわずかしか離れておらず、常に、煙や水蒸気が吹き付け、そのうえに振動が加わった。そのために松樹の寿命が短くなったことは、法の認めたところである。このことを松樹の跡に碑を建てて、後世に伝える。 石碑の建立計画は、大審院判決により清水が勝訴した1919年(大正8年)頃から始まった。 石碑の文面には大正11年(1922年)5月30日と記されているが、これは弁護士藤巻嘉一郎によって書かれた撰文の日付である。実際に石碑が建立されたのは、1933年(昭和8年)4月28日に、清水倫茂が日野春警察署に石碑建設許可を願い出て、翌月5月15日に許可が下りた1933年(昭和8年)のことであった。 清水倫茂は石碑の建立から3年後の1936年(昭和11年)に亡くなり、ともに闘った弁護士藤巻嘉一郎は1946年(昭和21年)に亡くなった。 大審院勝訴後の示談過程で持ち上がった石碑建立の経緯について、当時の新聞記事は清水倫茂の発言を引用し、次のように報じている。 原告清水氏は元来が鉄道院より金を取らんとするが目的にあらざれば…、たとえ松樹は枯死してその形影を止めさるに至るも後世まで旗掛け松の歴史をつたえんとの希望にて損害賠償としてその建設方を示談の条件として鉄道院に交渉した。 — 大正8年6月2日、山梨毎日新聞。 清水倫茂にしてみれば、賠償金を受け取ることよりも、法によって「松樹枯死の責任」が鉄道院側(国)にあったと、公に認められたことのほうが嬉しかったのである。 この石碑は、枯死した信玄公旗掛松の株跡に建立されたものであったが、1969年(昭和44年)の中央本線複線化工事に際し、石碑が複線化予定用地にかかってしまったため、当時の国鉄により国鉄自らの経費によって丁重に現在地に移設された。国鉄当局の考え方が信玄公旗掛松事件当時の鉄道院時代とは全く変わっていることがわかる。 1964年(昭和39年)に甲府駅から上諏訪駅までが電化され給水の必要もなくなった今日の中央本線では、日野春駅に停車する列車は各駅停車のみとなり、同駅に立ち寄る人も少なくなった。しかし、今後もこの石碑は日本裁判史上記念すべきモニュメントとしての役割を果たし続けるであろうと、民法学者の川井健は述べている。
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