鉄道院時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 09:18 UTC 版)
1917年(大正6年)5月16日、終身の貴族院議員に勅選された。これは寺内内閣の内務大臣兼鉄道院総裁であった後藤新平の働きかけによるものだった。後藤は自らの鉄道広軌化の方針を推進するため議会対策として腹心の是公を貴族院に送り込んだわけである。まもなく同年5月21日、後藤は是公を鉄道院副総裁に任じ、脇を固めることになった。 1918年(大正7年)4月23日、後藤が外務大臣に横滑りすると、後藤が兼任していた鉄道院総裁には、是公が就任した。しかし9月29日、寺内内閣は総辞職し、是公はわずか半年で鉄道院総裁を追われることになった。
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