運転・経歴とは? わかりやすく解説

運転・経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 13:23 UTC 版)

国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

京阪間鉄道の開業用に発注された本形であるが、開業式には間に合わず貨物用機関車(のちの7010形)2両を旅客用改造(のちの5100形)して間に合わせている。 来着した本形は、製番順に42, 44, 46, 48, 50, 52付番された。その後1894年明治27年)にはP形に類別され1898年明治31年)の鉄道作業局による分類ではD4形となり、33 - 38改番された。 この頃には、奥羽線横手白沢間や北陸線今庄富山間で使用されていた。 1906年明治39年)に制定され鉄道国有法を受け、1909年明治42年)に制定され鉄道院形式称号規程では、5130形(5130 - 5135)となり、品川浜松入換用使用されていた。 1916年大正5年8月に5132 - 5135の4両が、1918年大正7年7月には5130が、1919年大正8年)には5131が越後鉄道現在のJR東日本越後線及び弥彦線)に払下げられ、同社の「10 - 15となったが、1927年昭和2年)に越後鉄道買収国有化され、再び国有鉄道籍に戻ったその際、旧番に戻ったとされるが、2年後1929年昭和4年10月全機廃車され、解体された。

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国鉄5000形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

形式は、同時発注されタンク機関車10両とは異なり西部地区阪神間開業用として発注された。そのため、直接神戸陸揚げされたものと推定されている。来着した2両は、製番の順に東部地区用とは別体系でA, Bと名付けられた。その後東部地区用と連番となる11, 12改番されたが、その時期は不明である。 俗説として、京浜間鉄道開業時お召列車牽引したとも伝えられるが、これは誤りで、後の調査により、160形であったことが判明している。 1876年明治9年)には、東部京浜間)の機関車奇数に、西部阪神間)の機関車偶数とする改番実施され11は4に、12は2に改められた。1894年明治27年)にはO形に、1898年明治31年)の鉄道作業局形式分類ではD1形に類別された。 東海道線の全通までは、一貫して京阪神地区使用されたが、後には、北陸線今庄 - 富山間や中央線名古屋 - 多治見間でも使用されたようである。 1909年明治43年)、鉄道国有法施行受けて制定され形式称号規程による改番では、5000形定められ新番号は旧番号の順に5000, 5001となっている。このころは、中部鉄道管理局所管で、1910年明治44年)に沼津入換用使用されているのが実見されている。 その後1913年大正2年)に5000神戸に、5001東京移った50011919年大正8年12月18日付け廃車解体されたが、5000鉄道開業50周年の関係もあって日本初テンダー機関車として保存計画され1921年大正10年11月25日付け廃車となった

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国鉄A3形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1872年日本来着した前期形2両は、製造番号の順に「6, 7」と付番された。鉄道開業後は、京浜間使用され使用成績シャープ・スチュアート(後の160形)に次いで良好であった1876年明治9年)には、東部京浜間)の機関車奇数に、西部阪神間)の機関車偶数とする改番実施され、6は「5」に改番されている(7は不変)。 1885年明治18年)ごろ日本鉄道貸し渡されたが、東海道線工事が始まると、工事使用するため新橋工場で完全修理がなされ、7は1886年明治19年暮れ馬入川相模川)に、5は1887年初めに沼津送られた。東海道線の全通後は、保線工事用として京浜間戻っている。 1894年明治27年)には「C形」に類別され1898年明治31年鉄道作業局では「A3形」に類別された。 1895年明治28年)から1897年明治30年)頃には、煙突を少し太くし、運転台前部風除けの窓を丸型にして後部にも風除け設け安全弁をラムズボトム式に改め改造実施されている。 前述のように1900年から1901年にかけて、本形式2両は除籍され台湾総督府鉄道譲渡されたが、台湾には「7」到着したのみで、「5」は輸送途中海難事故失われたようである。 台湾到着後、形式は「A2-4-0T形」(Avonside製の軸配置2-4-0(1-B)のタンク機関車の意。番号そのまま)に改められ南部高雄 - 台南間で使われたようである。1906年明治39年)には「9」に改称形式後年E9形に改められ1926年大正15年)に使用停止となった

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国鉄190形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1872年日本来着した本形式は、「8, 9」と命名され京浜間使用された。1876年明治9年)には、東部京浜間)の機関車奇数に、西部阪神間)の機関車偶数とする改番実施され、8は「11」と改番された(9は改番なし)。 特殊な形態ゆえ、当初使い勝手決し良くなかったようだが、徐々に克服され1885年6月末の走行距離は、9は236,945 1/2哩、11207,007哩で、シャープ・スチュアート(後の160形)やエイボンサイド(後のA3形)と比べて遜色のないものであった1894年明治27年)に「D形」に類別されている。 1895年には9が、1897年には11前述の大改造を受け、形式は「AI形」と改められた。1898年明治31年)の改番では「A5形」に類別されている。 その後一時的に奥羽本線使用されたこともあったようだが、ほぼ、京浜間使用された。 1909年明治42年)、鉄道国有法施行受けて制定され形式称号規程による改番では、形式190形と定められ新番号は190, 191となっている。 本形式1911年明治44年10月20日付け尾西鉄道現在の名古屋鉄道尾西線)に払い下げられ同社の戊形(21, 22となったが、1927年昭和2年)に廃車となった保存車はない。

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国鉄110形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

輸入後は、10付番され、京浜間使用されたが、使用成績はあまり良くなかったとされている。1873年明治6年)に当時京浜間担当汽車監察F・Cクリスティ建築師長R・Vボイル提出した報告書によれば、「第十番之機関即ちヨークショール社中製造之分ハ全体揃えると云ふ而製作悪しく其製作を調ふるニ従ヒ益々其不聢と不正とを見出し候此機関決して頼ミ難く候……(ヨークシャー製の10号機関車は、ただ形を作っただけのもので、工作調べると不確実不整合部分多く信頼できない)」と最劣等評価下されている。しかし、当時ヨークシャー社は、熟練技術者擁する相当な実力持ったメーカーであり、日本輸出されたものだけが殊更に程度悪かったとは考えにくく、来着後の組み立て不手際やバルブセッティングの不良などがこうした結果招いたではないかと、蒸気機関車研究家臼井茂信は著書の『機関車系譜図1』(1972年)の中で述べている。さらに、本機入換建設といった雑務用ながらも、バルカン製の1(150形)やダブス製の8, 9(190形)のように大改造もされず、50年使用され事実が、このことを証明しているのではないか指摘している。 1876年明治9年)に東部京浜間)で使用される機関車番号奇数西部阪神間)で使用される機関車番号偶数改番した際、本機は3となる。1880年明治13年)には共に東部用の附番である奇数番号ながら「1」とともに神戸送られたが、1885年明治18年)に京浜間復帰A形となったその後日本鉄道貸し渡され品川 - 赤羽間で使用されたが、1886年明治19年)に江尻現在の清水)に送られ東海道幹線建設従事した1898年明治31年)には、形式A2形改められている。 その後一時北海道官設鉄道貸し渡され、その建設従事したが、1906年明治39年)ごろには東京戻り新橋駅暖房用として使用されているのが確認されている。1909年明治42年)、鉄道院称号規程制定により、110形(110)となった頃には西部鉄道管理局内にあり、1914年大正3年)にはドイツ注文した機関車第一次世界大戦の影響届かない富山軽便鉄道貸し渡され名古屋鉄道管理局経て1920年大正9年6月には東京戻っている。 その頃には、すでに本機は「日本最古機関車」として著名な存在となっており、1924年大正13年1月1923年12月との説もあり)の廃車後は、大宮工場にあった鉄道参考陳列所」に保存されることとなった

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国鉄2850形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

3両が伊賀鉄道によって発注され1 - 3となるはずであったが、同鉄道開業せずに終わったため、1899年明治32年)に1、3が阪鶴鉄道引き取られ、A5形 (12, 13) となったその後同社国有化され1909年明治42年)に2850形(2850, 2851)となり、西部鉄道管理局所属した残った2も1900年明治33年)に尾西鉄道引き取られ、乙形 (11) となった1911年明治43年10月21日に他の2-4-2 (1B1) 形タンク機関車3両とともに鉄道院2-4-0 (1B) 形タンク機関車4両(160形164, 165190190, 191)と交換することとなり、同車2850形編入されて2852となり、西部鉄道管理局所属した1923年大正12年4月に2851が、同年7月には残る2850・2852も廃車となったが、2850が駄知鉄道11、2851が播丹鉄道8、2852が北九州鉄道4となった。駄知鉄道111938年昭和13年11月売却され日曹炭鑛富鉱業所12となり、1955年昭和30年)に廃車解体された。播丹鉄道8は1943年昭和18年6月国有化され廃車予定されたが、西武鉄道引き取られ戦時中国分寺 - 本川越間、終戦後は北所沢(現、新所沢)の専用線使用され、7と改番された。その後1959年昭和34年)頃から休車となっていたが、1962年昭和37年3月上武鉄道貸し渡され同年6月から使用されたが、1965年昭和40年11月1日付け廃車となり西武鉄道返却された。北九州鉄道4は、1937年昭和12年)に国有化されたが、引き継がれずに廃車解体された。

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国鉄1290形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1875年来着した2両は、22, 24付番され、西部地区阪神間)の建設工事使用された。その後日本鉄道建設用の1両が1882年来着し、こちらは25付番され、「善光」の愛称いただいたことは前述のとおりである。 官設鉄道の2両は、1885年H形類別され1898年明治31年)には、形式B1形改められている。 本形は、建設工事用として各地転々としており、京阪神間の開業後の1880年敦賀 - 長浜間の建設のため、船積みされ金ヶ崎現在の敦賀港)に送られたが、1886年3月に1両が湖東線建設のため戻されている。 日本鉄道25は、1894年明治27年)に官設鉄道日本鉄道機関車管理体制分離されたのに伴う改番で、M3/3形の3となったが、後に工事機関車を「甲」、工場入換用を「乙」としたことから、甲1(機関車には「1」とのみ表示となった。つまり、日本鉄道には、通常の営業用の「1」と工事用の「甲1」、入換用の「乙1」と3両の1号機関車存在したことになる。 甲1は、1906年明治39年)の日本鉄道国有化時には東京戻っており、田端機関庫入換用として使用されていた。1908年明治41年)には軌間762mmから改軌工事中で機関車製造遅れていた青梅鉄道23(のち165とともに貸し出されている。国有化受けて1909年明治42年)に制定され鉄道院形式称号規程では、1290形と定められ官設鉄道22, 24は1290, 1291に、旧日鉄道の甲1は1292に改められた。 1911年明治44年4月に1290と1291は千葉県庁払下げられ、千葉県営鉄道野田線)の1, 2となりこの2両で開業した1923年大正12年)に千葉県営鉄道北総鉄道譲渡され1930年昭和5年3月廃車された。その後消息明らかでない。 1292は、工事用として秋田鉄道現在のJR東日本花輪線一部)に貸出されるなどしていたが、1918年大正7年)に使用中になった1922年大正11年7月になると千葉県営鉄道野田線)が野田町野田醤油株式会社工場新築工事資材輸送のためにこの機関車借り受け、ここで3両が揃うことになったその後1923年廃車された。

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国鉄150形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

同時に発注され10両のうち、最も早く日本到着した本機は1と付番され、1872年10月14日新暦)の 横浜 - 新橋鉄道開業後は、客貨問わず使用された。しかし、使用成績思わしくなく、現場ではその改善腐心したようである。1872年8月から1885年6月までの走行距離104,641哩で、2 - 9(のちの160形190形など)の半分弱、最も使用成績良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。 横浜 - 新橋 間で約8年間使用された後、1880年明治13年11月には東海道線神戸地区転用された。1885年には前述の大改造後半田送られ中山道幹線建設資材輸送用使用された。1905年明治38年)には、大阪地区入換専用になっているのが確認されている。 本機番号は、1907年明治40年)の鉄道作業局終わりまでは一貫して「1」であり、1894年分類ではE形1898年鉄道作業局分類ではA1形となった1906年明治39年)の鉄道国有法施行受けて1909年実施され鉄道院車両称号規程では、150形 (150) と定められた。 本機は、1911年明治44年4月1日付け島原鉄道開業用に譲渡され同社の1となって客貨牽引用いられた。同社では、正面煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具クリート)が取付けられ蒸気ドーム覆いは、円筒形不細工なものに交換された。ドーム汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げ受けた九州鉄道クラウス蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱設置されオリジナルでは側水槽前方踏段の裏にあった角形砂箱撤去されている。 昭和初めごろ、元鉄道記者青木槐三貴重な1号機関車として当時鉄道省への返還保存のための運動始めた。その甲斐あって1930年昭和5年)、600形656号機との交換鉄道省に戻ることになった島原鉄道ではまだ十分に活用できる考えていたために、このような交換となったのである同年7月3日本機諫早駅盛大な惜別式を行ない、『送国宝一号機関車と書かれた幟を飾って鉄道省引き渡された。その際創業者当時の社長植木元太郎は、創業期功績のあった機関車への感謝の念込め惜別感無量』と自筆揮毫したプレート誂えて、側水槽装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。

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国鉄120形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1874年来着したスティーブンソン製の4両は、西部地区神戸)に配属された。当初シャープ・スチュアートテンダー機関車(後の5000形)の続番である「13 - 16」と付番されたと思われるが、それを証明する資料未発見である。 1875年には、シャープ・スチュアート製の増備車4両が来着し、「24 - 27」と付番されたと思われる1876年明治9年)には、東部京浜間)の機関車奇数に、西部阪神間)の機関車偶数とする改番実施され13 - 16は「6, 8, 10, 12」に、24 - 27は「34, 36, 38, 40」に改められた。 シャープ・スチュアート製の2両(36, 40)は、前述のように1882年日本鉄道譲渡され同社のSS2/3形(16, 17となった官設鉄道残った34, 38は、そのまま西部地区使用されていたが、後(1890年頃?)に東部地区転属スティーブンソン製の4両についても、1884年から1885年にかけて東部地区転属し、京浜間使用された。 1894年明治27年)には、スティーブンソン製の4両はF形に、シャープ・スチュアート製はG形に類別された。その際シャープ・スチュアート製は、3431に、3832改番されている。 1898年明治31年)の鉄道作業局による分類では、両形式統合してA4形となっている。 1906年明治39年)に制定され鉄道国有法により、日本鉄道買収国有化され同社分かれていた2両は、再び官設鉄道戻った。この買収受けて1909年明治42年)に制定され鉄道院形式称号規程では、スティーブンソン製の4両は120形120 - 123)に、シャープ・スチュアート製のうち官設鉄道とどまっていた2両は130形130, 131)に、日本鉄道から戻った2両は140形(140, 141)に改められている。 その後数年のうちに本グループ淘汰対象となり、1912年明治45年)から1915年大正4年)にかけて、地方私鉄などに譲渡された。譲渡後私鉄の間を転々としたもの多く中にはその私鉄国有化によって、再度あるいは三度国有鉄道に籍を移したものがある。移籍状況については、次のとおりである。 120122は、1914年大正3年5月三河鉄道現在の名古屋鉄道三河線)に払下げられ、鉄道院時代番号のまま使用された。1925年大正14年)に同鉄道の電化により休車となり、1934年昭和9年)ごろ解体された。 121123は、1915年3月簸上鉄道現在のJR西日本木次線一部)に払下げられ、同社1, 2となったそのうちの2は、1926年大正15年)に加悦鉄道譲渡されたが、1は1934年昭和9年8月簸上鉄道国有化により、再び国有鉄道鉄道省)籍に戻り帳簿上は旧番の121復したが、翌1935年昭和10年)には、南総鉄道に再び譲渡され同社の1となった。しかし、南総鉄道1939年昭和14年)に廃止されその後消息不明になっている。 130と140は、1913年大正2年)に宮崎県営鉄道現在のJR九州日豊本線及び妻線一部)に払下げられ、鉄道院時代番号のまま使用された。1917年大正6年9月宮崎県営鉄道国有化され、両機は再び国有鉄道籍に戻った130は、1919年大正8年)に防石鉄道譲渡され、旧番号のまま使用された。同機1940年昭和15年)に台湾売却されたが、その後消息不明である。 一方140は、1922年大正11年)に阿南鉄道現在のJR四国牟岐線一部)に譲渡され、旧番号のまま使用された。阿南鉄道1936年昭和11年7月国有化され同機三度国有鉄道籍に戻った再々買収後1940年越中鉄道(後の富山地方鉄道射水線及び現在の万葉線新湊港線)に譲渡された。1942年昭和17年)に東北本線村崎野にあった国際軽銀東北化学肥料専用線売却され1952年昭和27年)に解体された。 131141については、1912年3月内務省土木局保管転換され直轄河川工事用に使用されたが、詳細不明である。

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国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

形式は、官設鉄道輸入仲介したことから、官設鉄道番号体系にいったん組み込まれ東部地区用の奇数番号35 - 57)を付与された。日本鉄道独立後は、Dbt2/4形(4 - 15)と改められた。1906年制定鉄道国有法により日本鉄道買収国有化されると、1909年に5230形(5230 - 5241)に改番されている。 その後は、総武線房総線使用され1924年大正13年11月全車廃車された。譲渡機はない。 興味深いのは、日本鉄道独立後も官設鉄道形式Qを付与していることで、官設鉄道一部かなりの長期間借受けていたことに由来していると推定されている。

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国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

形式は、大宮工場製作した機関車第1号である。予備部品使用した1両限りデッドコピー機ではあるが、この時期私鉄工場蒸気機関車製造したことは、記念されてよいであろう落成時の形式は、Obt2/4形といい、番号は3(2代目)であった大宮配置され、主に東北本線使用された。日本鉄道買収国有化後の1909年に5270形(5270)に改められ関西移ったが、同系の僚機よりも早い1922年大正11年)に廃車となった

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国鉄5300形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

形式日本鉄道開業用として、1882年に2両(製造番号2161,2162)が製造輸入され日本初の「ピーテン」である。当時方法則り官設鉄道輸入代行しており、一旦官設鉄道籍に入ってから、日本鉄道振り向けられた。官設鉄道では、R形(31, 33となったが、1893年明治26年)に正式に日本鉄道譲渡され、Pbt2/4形(2,1(2代))となった官設鉄道では、1888年明治21年)に翌年予定され東海道線全通時の増強用として12両(製造番号2990 - 2995, 2999 - 3004)を注文し翌年納入された。官設鉄道では、先に日本鉄道用に振り向けたものと同じR形に編入し106 - 128偶数)に付番した。このときのものは、日本鉄道のものより蒸気圧力が上げられて、9.8kg/cm2となっている。1892年には114 - 126偶数)の7両が東部106 - 108偶数)、128の5両が西部配置されており、1893年には77 - 84, 86 - 92偶数)に改番された。1898年明治31年)の鉄道作業局形式称号規程では、D5形に類別された。 山陽鉄道では、1890年10両(製造番号3132 - 3141)を輸入し形式3(9 - 18)とした。山陽鉄道のものは、ボイラー新設計のものとし、運転室の幅を拡大しており、第2動輪スプラッシャーは、運転室側面と一体ではなくなっている。 日本鉄道山陽鉄道14両は、1906年明治39年)に制定され鉄道国有法により、両社買収国有化されたのにともない官設鉄道籍となり、1909年明治42年)の鉄道院車両形式称号規程では、5300形5300 - 5323)となった新旧番号対照は、次のとおりである。 官設鉄道 D5形(77 - 84, 86, 88, 90, 92) → 5300形5300 - 5311) 日本鉄道 Pbt2/4形(1, 2) → 5300形(5312, 5313) 山陽鉄道 形式3(9 - 18) → 5300形(5314 - 5323) 国有化後は、官設鉄道12両は中部鉄道局配置され東海道線および北陸線使用されていたようである。山陽鉄道10両は山陽線東部配置され京都大阪から乗り入れる急行直行列車牽引充てられていた。その後、5314, 5316, 5319 - 5321, 5323の6両は中部鉄道局転用され、さらにその後移動により、1911年明治44年10月末には22両が中部鉄道局揃っていた。 一方旧日鉄道の5312, 5313は、東部鉄道局に配置され錦糸町庫で入換専用になっていたが、1914年大正3年2月東武鉄道譲渡され同社B2形27, 28となった鉄道院残った22両は、当時急速に開業しつつあったローカル線使用するため、1921年大正10年)から1923年大正12年)にかけ、浜松工場4-4-2(2B1)型のタンク機関車960形960 - 981)に改造され、この改造終了をもって5300形消滅した

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国鉄7010形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1874年来着したキットソン製の4両は、17 - 20付番され、阪神間貨物列車用として12月から使用開始した1876年来着したバルカン製の4両も、28 - 31付番され、阪神間使用された。また、同年東部京浜間)の機関車奇数に、西部阪神間)の機関車偶数とする改番実施され17 - 1914, 16, 1820不変)に、29, 3126, 3228, 30不変)に改められた。 前述のように、1876年にはキットソン製の2両(18, 20)が旅客用4-4-0(2B)テンダー機関車改造されている(詳細は、5100形の節で記述する)。 これらC形テンダー機関車は、阪神間鉄道京都大津伸びるに従って延長区間でも使用された。1882年長浜 - 金ヶ崎現在の敦賀港)間の鉄道開業すると、2両がこちらに移っている。 1894年明治27年)には、キットソン製、バルカン製ともU形に類別されたが、1898年明治31年)の鉄道作業局による分類では、E1形となり、同時にバルカン製の4両(26, 28, 30, 32)は、25, 27, 29, 30改番された。 1906年明治39年)に制定され鉄道国有法を受け、1909年明治42年)に制定され鉄道院形式称号規程では、製造メーカーが違うことから形式分けられキットソン製の2両は「7010形」(7010,7011)に、バルカン製の4両は「7030形」(7030 - 7033)に改められている。 この時点で、7010, 7011は北海道鉄道管理局、7030 - 7032は中部鉄道管理局、7033は西部鉄道管理局配置されていた。 7010, 7011は、建設用として滝川下富野間などで使われたが、1914年11月石狩石炭(株)1915年大正4年)に美唄鉄道譲渡)に払下げられ、芦別鉱業専用鉄道使用された。同社では、鉄道院時代のままの番号使用され、7011は1940年昭和15年)に樺太三菱石炭油化工業(株)移ったが、太平洋戦争後の消息不明である。7010も1946年昭和21年)に三井鉱山(株)譲渡され美唄鉄道盤の沢駅隣接する新美唄鉱で使用された。1947年昭和22年)には同社美唄鉱業所に移籍1952年昭和27年10月まで使用された。 7032, 7033は、1915年4月越後鉄道現在の東日本旅客鉄道JR東日本越後線弥彦線)に払下げられ、同社の8, 9となったが、9は1915年8月21日ボイラー爆発事故起こし大破1916年3月に7031とともに廃車となった7030が代わって引き渡され2代目の9となった1927年昭和2年10月には、越後鉄道買収国有化されたため、両機は国有鉄道籍に戻り、再び「7030形」となったが、旧番には戻らず番号順に7030, 7031(いずれも2代目)となった。しかし、1929年昭和4年10月には、両機とも廃車解体されている。

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国鉄7010形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

改造により、大きく形態変わった両機であったが、番号18, 20のままで変更されなかった。西部地区配属され1877年明治10年2月5日京阪神鉄道開通式には、いずれかお召し列車牽引している。 それ以後も、西部地区配属されており、1891年5月大津事件の際には、20お召し列車牽引しており、1901年頃には、18が1(後の150形とともに大阪駅入換使用されているのが実見されている。また、一時期名古屋富山周辺使用されたこともあったようである。 1894年には、N形に類別され1898年鉄道作業局による分類では、D2となった1909年鉄道院形式称号規程では、形式5100形定められ番号は5100, 5101に改められた。この時点では、2両とも西部鉄道管理局配属され神戸駅入換用使用されていたが、1918年大正7年8月21日付けで2両とも廃車となっている。 廃車後、両機は神戸機関庫構内留置されていたが、同年11月28日、加減弁とブレーキ閉め忘れていた3382(3380形)が自然に動き出し、5101と221220形)を押し出して、海に転落させるという事故が起こり川崎造船所からクレーン船借り出して引き上げるという騒ぎになっている引き上げられた5101は、1920年大正9年7月に5100とともに相模鉄道現在のJR東日本相模線)に払下げられ、番号順に100, 101となった100は、1927年昭和2年)に加悦鉄道譲渡され同社の1となったが、1937年昭和12年)に廃車解体されている。廃車直前訪れたファン実見によれば加悦鉄道1の弁装置ジョイ式であり、同機20後身ということになる。時期不明であるが、番号振替えが行われていたもの思われる101は、1930年代になると使用されなくなり茅ケ崎車庫突っ込まれたままとなっていた。1942年昭和17年)頃に尼崎住友金属貸し出されたが、その用途目的はよくわかっていない。1950年昭和25年)に返却され厚木留置されたが、間もなく解体された。

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国鉄5500形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

官設鉄道東海道線増強用としてベイヤー・ピーコック社に6両を発注した製造番号は3597 - 3602。官設鉄道での形式番号は、計画時は形式AF (226 - 231) だったが、組立て完了までに番号142 - 147改番された。落成後は、東海道線中部静岡機関庫などに配置されたが、後に142 - 144, 146奥羽南線でも使用された。1898年明治31年)には、ニールソン社製の5630形とともにD6形に改められた。 日本鉄道では、1894年明治27年)に同形機をPbt2/4形として12両を輸入した。こちらはボイラー仕様官設鉄道のものと若干異なり整備重量も重かった。日本鉄道では、1897年明治30年)に36両、1898年12両を増備したが、1898年製の3次車は、第1動輪スプラッシャー前方砂箱大型化している。 日本鉄道所属車の、製造番号及び番号次のとおりである。 1894年製造番号3640 - 3651 番号93 - 104 1897年製造番号3889 - 3924 番号153 - 188 1898年製造番号4014 - 4025 番号189 - 200 1906年公布され鉄道国有法により、日本鉄道総武鉄道買収国有化され両社所属した66両が官設鉄道編入された。これを受けて1909年制定され鉄道院車両形式称号規程により、官設鉄道のD6形及び旧日鉄道のPbt2/4形、旧総武鉄道16 - 21は5500形と定められ官設鉄道の6両が5500 - 5505、旧日鉄道60両が5506 - 5565、旧総武鉄道の6両が5566 - 5571に改められた。 官設鉄道の5500 - 5505は、この頃には北陸線移っており、中部鉄道局所属していた。その後は、西部鉄道局に移り山陰線豊岡米子配置されたが、1921年大正10年6月東京鉄道局に転じている。 旧日鉄道総武鉄道66両は、高崎線東北線、総武線主力として使用されたが、一部蒸気圧力を12.2kg/cm2に上げて気筒直径縮小し奥羽線転用された。また、信越線北部および羽越線転用されたものもあり、1923年大正12年6月仙台鉄道新津運輸事務所管内には5539 - 5552の14両が配置されていたと記録されている。総武線へは、国有化後に5500形が増備され、やがて房総線でも使用された。 1923年9月1日発生した関東大震災では、実に9両の5500形(5526(品川庫), 5528, 5530(千葉庫), 5560, 5564, 5567, 5569(錦糸町庫), 5557, 5558(安房北条庫))が被災しているが、幸いにも廃車発生していない。 1925年大正14年)に仙台鉄道配置の3両 (5541, 5544, 5549) が東武鉄道譲渡され1929年昭和4年)および1930年昭和5年)には、12両 (5509, 5511, 5519, 5523, 5536, 5554, 5556, 5559, 5561, 5563, 5567, 5569) が廃車となり、10両 (5506, 5507, 5510, 5512, 5515, 5527, 5534, 5557, 5558, 5565) は、B10形2B1タンク機関車改造された。 1933年昭和8年6月現在で、東京鉄道局に36両、仙台鉄道局に11両の計47両が配置されていたが、東京鉄道配属車のうち17両は休車で、稼働車はすべて入換専用であった東京鉄道局では、1935年昭和10年3月までに、先の休車17両に2両を加えた19両 (5503, 5504, 5514, 5516, 5517, 5518, 5520, 5521, 5522, 5524, 5526, 5528, 5529, 5531, 5532, 5533, 5562, 5564, 5566) が廃車となった仙台鉄道局の11両は、越後線使用されていたが、1939年昭和14年)までに6250形置き換えられ、5539, 5540, 5543, 5545, 5547を残して廃車された。このうち、5531,5551は東武鉄道に、5542は三井三池港務所に、5552は寿都鉄道に、5560は日本曹達天塩鉱業所に譲渡された。 太平洋戦争後の1947年昭和22年1月には5546が三岐鉄道に、5548が名古屋鉄道譲渡された。この頃には、22両が飯田町横浜国府津入換専用使用されている。 1952年昭和27年10月17日鉄道開業80周年記念行事一つとして東横浜 - 汐留間に蒸気列車汽笛一声号」が運転されることとなり、その牽引を5500形が務めることになった当時横浜機関区在籍していた5500形7両 (5501, 5513, 5530, 5537, 5538, 5570, 5571) のうち、最も状態の良かった5571に5501のナンバープレート取付け運転したが、これらも1955年昭和30年9月廃車され、5500形は施設局に5508, 5540, 5543, 5553の4両を残すのみとなった1961年昭和36年)に、翌年鉄道開業90周年記念して開設されることとなった青梅鉄道公園での保存機として5540が選ばれ残りの3両は解体された。これをもって国鉄の5500形はすべて姿を消したベイヤー・ピーコック製の本形式は、80年もの間使用されながらも気筒ピストン磨耗がほとんどなく、検査時に気筒プッシングの必要がまったくなかったという。後年国鉄研究所では、その材質分析したが、リン含有量が少し多いという以外、金属の材質からはその理由が全く解明できなかったという。

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運転・経歴

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国鉄7100形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

1880年11月28日手宮駅 - 札幌駅間が開業し、1「義經」と2「辨慶」の使用開始された。先立つ同年10月には試運転にも投入されている。翌1881年明治13年8月30日には、明治天皇がこの区間乗車し、「義經」が「開拓使号客車を含むボギー客車9両編成お召し列車牽引している。 1882年11月13日には札幌 - 幌内間が延伸開業し、3「比羅夫」と4「光圀」が増備されている。その後、5「信廣」と6「しづか」が増備されたが、1887年増備はやや大型ボールドウィン製の1C形テンダー機関車7, 8。後の7170形)となった1889年には、再びポーター製が2両増備され「9, 10となったが、後に前述の「7, 8」と番号交換10, 9→7, 8)し、ポーター製を「1 - 8」に揃えている。 北有社による請負営業経て1889年12月10日幌内鉄道北海道炭礦鉄道払下げられ、本形式同社引き継がれた。北海道炭礦鉄道ではA形(1 - 8)、後にイ形とした。 北海道炭礦鉄道では、本形に対し煙室延長ダイヤモンド煙突パイプ形への交換カウキャッチャー撤去などの改造が行なわれ、原形損なわれていった1899年明治32年)には、7が北海道庁鉄道部北海道官設鉄道)に譲渡され、同部のB2形(11)となっている。同機は、煙突煙室改造施行されておらず、原形に近い形態保っていた。だが、いずれにしても営業列車使用されることはほとんどなく、主に建設工事除雪用に使われていたようである。1905年4月1日官設鉄道鉄道作業局編入後はEc形と称した前述のように、1906年10月1日北海道炭礦鉄道買収国有化され官設鉄道編入された。前年4月移管されていた北海道官設鉄道の1両を含めて、本形の8両全部が官設鉄道引き継がれた。1909年明治42年)には、鉄道院車両称号規程制定され7100形(7100 - 7107)に改められた。公式の改番次のとおりである。 旧北海道官設鉄道11B2形), 旧北海道炭礦鉄道1 - 6, 8(形式イ) → 7100 - 7107 この時の改番であるが、実際番号現車製造番号の間の関係に相当の乱れ生じている。これは、製造銘板ボイラー取り付けられていたことと、北海道炭礦鉄道では修繕効率化のため、足回りボイラー別々に管理しており、相互振替え頻繁に行なわれていたために生じたもので、本形が3両も保存されることとなる遠因となっている(この詳細については、次節述べる)。 この時点で、7103が入換用に、他の7両が北海道庁建設事務所貸出され建設用に使用されていた。 1915年大正4年)には粘着力増大を図るため、先輪撤去する改造函館工場施行されたが、蛇行動がひどくなり、すぐに復旧されている。ただし、改造記録確認できるのは7103のみで、復旧記録もなく、全車施行されたかどうかは疑わしいその後1917年大正6年)に7106が廃車され、日本製鋼所室蘭製作所売却されたのを皮切りに、7103が1922年大正11年)に廃車され、由仁軌道への譲渡予定されたが、キャンセルされ以降消息不明となっている。1923年大正12年)に7100, 7102, 7104, 7105, 7107が廃車となり、7100, 7102, 7107が北海道建設事務所に、1925年大正14年)には7104, 7105が梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)に譲渡されている。7101は保存のため東京送られた後の1924年大正13年)に廃車となっている。 梅鉢鐵工所譲渡された7104は、後に高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)の建設用に譲渡されたが、工事完成後に解体された。

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運転・経歴

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国鉄5490形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説

輸入当初の本形式は、東部地区配属され27, 29付番された。後に西部神戸地区移り1893年明治26年)の日本鉄道分離の際にS形 (26, 28) に改められた。1898年明治31年)の鉄道作業局ではD3形と定められ一時奥羽線転用されていたようである。 鉄道国有法施行受けて1909年明治42年)に制定され鉄道院車両形式称号規程では5490形 (5490, 5491) となっており、中部鉄道局配置され北陸線富山付近使用されていたと推定されている。 その後、5490が1918年大正7年11月成田鉄道現在のJR東日本成田線一部)に譲渡され同社10となった成田鉄道1920年大正9年9月買収国有化されたため、再び国有鉄道となったが、翌1921年大正10年)に廃車解体された。 一方、5491は1919年大正8年3月筑波鉄道譲渡され同社の4となり、1937年昭和12年)まで使用された。筑波鉄道時代同機スプラッシャーは、第1動輪のものと第2動輪のものが分離した形態になっていたが、これが改造時からのものであったのか、その後改造されたものなのかは、両説あって定かでない

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運転経歴

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トーネス原子力発電所」の記事における「運転経歴」の解説

事故の詳細は健康安全局原子力施設での事故四半期ごとの報告書記したインターネットサイト原子力認可施設四半期ごとの検査報告書公表されている。

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