運転・経歴
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「国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
京阪間鉄道の開業用に発注された本形であるが、開業式には間に合わず、貨物用の機関車(のちの7010形)2両を旅客用に改造(のちの5100形)して間に合わせている。 来着した本形は、製番順に42, 44, 46, 48, 50, 52と付番された。その後、1894年(明治27年)にはP形に類別され、1898年(明治31年)の鉄道作業局による分類ではD4形となり、33 - 38に改番された。 この頃には、奥羽線の横手-白沢間や北陸線の今庄-富山間で使用されていた。 1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法を受け、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、5130形(5130 - 5135)となり、品川や浜松で入換用に使用されていた。 1916年(大正5年)8月に5132 - 5135の4両が、1918年(大正7年)7月には5130が、1919年(大正8年)には5131が越後鉄道(現在のJR東日本越後線及び弥彦線)に払下げられ、同社の「10 - 15」となったが、1927年(昭和2年)に越後鉄道が買収・国有化され、再び国有鉄道籍に戻った。その際、旧番に戻ったとされるが、2年後の1929年(昭和4年)10月に全機が廃車され、解体された。
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運転・経歴
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「国鉄5000形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
本形式は、同時発注されたタンク機関車10両とは異なり、西部地区(阪神間)開業用として発注された。そのため、直接神戸に陸揚げされたものと推定されている。来着した2両は、製番の順に東部地区用とは別体系でA, Bと名付けられた。その後、東部地区用と連番となる11, 12と改番されたが、その時期は不明である。 俗説として、京浜間鉄道開業時のお召列車を牽引したとも伝えられるが、これは誤りで、後の調査により、160形であったことが判明している。 1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、11は4に、12は2に改められた。1894年(明治27年)にはO形に、1898年(明治31年)の鉄道作業局の形式分類ではD1形に類別された。 東海道線の全通までは、一貫して京阪神地区で使用されたが、後には、北陸線の今庄 - 富山間や中央線の名古屋 - 多治見間でも使用されたようである。 1909年(明治43年)、鉄道国有法の施行を受けて制定された形式称号規程による改番では、5000形と定められ、新番号は旧番号の順に5000, 5001となっている。このころは、中部鉄道管理局所管で、1910年(明治44年)に沼津で入換用に使用されているのが実見されている。 その後、1913年(大正2年)に5000は神戸に、5001は東京に移った。5001は1919年(大正8年)12月18日付けで廃車、解体されたが、5000は鉄道開業50周年の関係もあって日本初のテンダー機関車として保存が計画され、1921年(大正10年)11月25日付けで廃車となった。
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「国鉄A3形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1872年、日本に来着した前期形2両は、製造番号の順に「6, 7」と付番された。鉄道開業後は、京浜間で使用され、使用成績はシャープ・スチュアート(後の160形)に次いで良好であった。 1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、6は「5」に改番されている(7は不変)。 1885年(明治18年)ごろ日本鉄道に貸し渡されたが、東海道線の工事が始まると、工事に使用するため新橋工場で完全修理がなされ、7は1886年(明治19年)暮れに馬入川(相模川)に、5は1887年初めに沼津に送られた。東海道線の全通後は、保線・工事用として京浜間に戻っている。 1894年(明治27年)には「C形」に類別され、1898年(明治31年)鉄道作業局では「A3形」に類別された。 1895年(明治28年)から1897年(明治30年)頃には、煙突を少し太くし、運転台の前部風除けの窓を丸型にして後部にも風除けを設け、安全弁をラムズボトム式に改める改造が実施されている。 前述のように1900年から1901年にかけて、本形式2両は除籍され、台湾総督府鉄道に譲渡されたが、台湾には「7」が到着したのみで、「5」は輸送途中の海難事故で失われたようである。 台湾到着後、形式は「A2-4-0T形」(Avonside製の軸配置2-4-0(1-B)のタンク機関車の意。番号はそのまま)に改められ南部の高雄 - 台南間で使われたようである。1906年(明治39年)には「9」に改称、形式は後年、E9形に改められ、1926年(大正15年)に使用停止となった。
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「国鉄190形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1872年、日本に来着した本形式は、「8, 9」と命名され、京浜間で使用された。1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、8は「11」と改番された(9は改番なし)。 特殊な形態ゆえ、当初の使い勝手は決して良くなかったようだが、徐々に克服され、1885年6月末の走行距離は、9は236,945 1/2哩、11は207,007哩で、シャープ・スチュアート(後の160形)やエイボンサイド(後のA3形)と比べても遜色のないものであった。1894年(明治27年)に「D形」に類別されている。 1895年には9が、1897年には11が前述の大改造を受け、形式は「AI形」と改められた。1898年(明治31年)の改番では「A5形」に類別されている。 その後、一時的に奥羽本線で使用されたこともあったようだが、ほぼ、京浜間で使用された。 1909年(明治42年)、鉄道国有法の施行を受けて制定された形式称号規程による改番では、形式は190形と定められ、新番号は190, 191となっている。 本形式は1911年(明治44年)10月20日付けで尾西鉄道(現在の名古屋鉄道尾西線)に払い下げられ、同社の戊形(21, 22)となったが、1927年(昭和2年)に廃車となった。保存車はない。
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「国鉄110形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
輸入後は、10と付番され、京浜間で使用されたが、使用成績はあまり良くなかったとされている。1873年(明治6年)に当時の京浜間担当の汽車監察方F・C・クリスティが建築師長R・V・ボイルに提出した報告書によれば、「第十番之機関即ちヨークショール社中製造之分ハ全体揃えると云ふ而製作極而悪しく其製作を調ふるニ従ヒ益々其不聢と不正とを見出し候此機関ハ決して頼ミ難く候……(ヨークシャー製の10号機関車は、ただ形を作っただけのもので、工作を調べると不確実、不整合の部分が多く、信頼できない)」と最劣等の評価が下されている。しかし、当時のヨークシャー社は、熟練技術者を擁する相当な実力を持ったメーカーであり、日本に輸出されたものだけが殊更に程度が悪かったとは考えにくく、来着後の組み立ての不手際やバルブセッティングの不良などがこうした結果を招いたのではないかと、蒸気機関車研究家の臼井茂信は著書の『機関車の系譜図1』(1972年)の中で述べている。さらに、本機が入換や建設といった雑務用ながらも、バルカン製の1(150形)やダブス製の8, 9(190形)のように大改造もされず、50年も使用された事実が、このことを証明しているのではないかと指摘している。 1876年(明治9年)に東部(京浜間)で使用される機関車の番号を奇数、西部(阪神間)で使用される機関車の番号を偶数に改番した際、本機は3となる。1880年(明治13年)には共に東部用の附番である奇数番号ながら「1」とともに神戸に送られたが、1885年(明治18年)に京浜間に復帰、A形となった。その後、日本鉄道に貸し渡され品川 - 赤羽間で使用されたが、1886年(明治19年)に江尻(現在の清水)に送られ、東海道幹線の建設に従事した。 1898年(明治31年)には、形式がA2形と改められている。 その後は一時、北海道官設鉄道に貸し渡され、その建設に従事したが、1906年(明治39年)ごろには東京に戻り、新橋駅で暖房用として使用されているのが確認されている。1909年(明治42年)、鉄道院の称号規程制定により、110形(110)となった頃には西部鉄道管理局内にあり、1914年(大正3年)にはドイツに注文した機関車が第一次世界大戦の影響で届かない富山軽便鉄道に貸し渡され、名古屋鉄道管理局を経て、1920年(大正9年)6月には東京に戻っている。 その頃には、すでに本機は「日本最古の機関車」として著名な存在となっており、1924年(大正13年)1月(1923年12月との説もあり)の廃車後は、大宮工場内にあった「鉄道参考品陳列所」に保存されることとなった。
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「国鉄2850形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
3両が伊賀鉄道によって発注され、1 - 3となるはずであったが、同鉄道は開業せずに終わったため、1899年(明治32年)に1、3が阪鶴鉄道に引き取られ、A5形 (12, 13) となった。その後同社は国有化され、1909年(明治42年)に2850形(2850, 2851)となり、西部鉄道管理局に所属した。 残った2も1900年(明治33年)に尾西鉄道に引き取られ、乙形 (11) となった。1911年(明治43年)10月21日に他の2-4-2 (1B1) 形タンク機関車3両とともに鉄道院の2-4-0 (1B) 形タンク機関車4両(160形164, 165・190形190, 191)と交換することとなり、同車も2850形に編入されて2852となり、西部鉄道管理局に所属した。 1923年(大正12年)4月に2851が、同年7月には残る2850・2852も廃車となったが、2850が駄知鉄道11、2851が播丹鉄道8、2852が北九州鉄道4となった。駄知鉄道11は1938年(昭和13年)11月に売却され、日曹炭鑛豊富鉱業所12となり、1955年(昭和30年)に廃車解体された。播丹鉄道8は1943年(昭和18年)6月に国有化され、廃車が予定されたが、西武鉄道に引き取られ、戦時中は国分寺 - 本川越間、終戦後は北所沢(現、新所沢)の専用線で使用され、7と改番された。その後1959年(昭和34年)頃から休車となっていたが、1962年(昭和37年)3月に上武鉄道に貸し渡され、同年6月から使用されたが、1965年(昭和40年)11月1日付けで廃車となり西武鉄道に返却された。北九州鉄道4は、1937年(昭和12年)に国有化されたが、引き継がれずに廃車解体された。
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「国鉄1290形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1875年に来着した2両は、22, 24と付番され、西部地区(阪神間)の建設工事に使用された。その後、日本鉄道建設用の1両が1882年に来着し、こちらは25と付番され、「善光」の愛称をいただいたことは前述のとおりである。 官設鉄道の2両は、1885年にH形に類別され、1898年(明治31年)には、形式がB1形と改められている。 本形は、建設工事用として各地を転々としており、京阪神間の開業後の1880年に敦賀 - 長浜間の建設のため、船積みされて金ヶ崎(現在の敦賀港)に送られたが、1886年3月に1両が湖東線建設のため戻されている。 日本鉄道の25は、1894年(明治27年)に官設鉄道と日本鉄道の機関車管理体制が分離されたのに伴う改番で、M3/3形の3となったが、後に工事用機関車を「甲」、工場入換用を「乙」としたことから、甲1(機関車には「1」とのみ表示)となった。つまり、日本鉄道には、通常の営業用の「1」と工事用の「甲1」、入換用の「乙1」と3両の1号機関車が存在したことになる。 甲1は、1906年(明治39年)の日本鉄道国有化時には東京に戻っており、田端機関庫で入換用として使用されていた。1908年(明治41年)には軌間762mmから改軌工事中で機関車の製造が遅れていた青梅鉄道に23(のち165)とともに貸し出されている。国有化を受けて1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、1290形と定められ、官設鉄道の22, 24は1290, 1291に、旧日本鉄道の甲1は1292に改められた。 1911年(明治44年)4月に1290と1291は千葉県庁に払下げられ、千葉県営鉄道(野田線)の1, 2となりこの2両で開業した。1923年(大正12年)に千葉県営鉄道は北総鉄道に譲渡され、1930年(昭和5年)3月に廃車された。その後の消息は明らかでない。 1292は、工事用として秋田鉄道(現在のJR東日本花輪線の一部)に貸出されるなどしていたが、1918年(大正7年)に使用中止になった。1922年(大正11年)7月になると千葉県営鉄道(野田線)が野田町の野田醤油株式会社の工場新築工事の資材輸送のためにこの機関車を借り受け、ここで3両が揃うことになった。その後、1923年に廃車された。
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「国鉄150形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した本機は1と付番され、1872年10月14日(新暦)の 横浜 - 新橋 間鉄道開業後は、客貨問わずに使用された。しかし、使用成績は思わしくなく、現場ではその改善に腐心したようである。1872年8月から1885年6月までの走行距離は104,641哩で、2 - 9(のちの160形、190形など)の半分弱、最も使用成績の良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。 横浜 - 新橋 間で約8年間使用された後、1880年(明治13年)11月には東海道線神戸地区へ転用された。1885年には前述の大改造後、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用された。1905年(明治38年)には、大阪地区で入換専用になっているのが確認されている。 本機の番号は、1907年(明治40年)の鉄道作業局の終わりまでは一貫して「1」であり、1894年の分類ではE形、1898年の鉄道作業局の分類ではA1形となった。1906年(明治39年)の鉄道国有法施行を受けて1909年に実施された鉄道院の車両称号規程では、150形 (150) と定められた。 本機は、1911年(明治44年)4月1日付けで島原鉄道の開業用に譲渡され、同社の1となって客貨牽引に用いられた。同社では、正面の煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具(クリート)が取付けられ、蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。ドームと汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げを受けた元九州鉄道のクラウス製蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱が設置され、オリジナルでは側水槽の前方と踏段の裏側にあった角形の砂箱は撤去されている。 昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鉄道省への返還・保存のための運動を始めた。その甲斐あって、1930年(昭和5年)、600形656号機との交換で鉄道省に戻ることになった。島原鉄道ではまだ十分に活用できると考えていたために、このような交換となったのである。同年7月3日、本機は諫早駅で盛大な惜別式を行ない、『送国宝一号機関車』と書かれた幟を飾って鉄道省に引き渡された。その際、創業者で当時の社長・植木元太郎は、創業期に功績のあった機関車への感謝の念を込め『惜別感無量』と自筆揮毫したプレートを誂えて、側水槽に装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。
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「国鉄120形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1874年に来着したスティーブンソン製の4両は、西部地区(神戸)に配属された。当初はシャープ・スチュアート製テンダー機関車(後の5000形)の続番である「13 - 16」と付番されたと思われるが、それを証明する資料は未発見である。 1875年には、シャープ・スチュアート製の増備車4両が来着し、「24 - 27」と付番されたと思われる。 1876年(明治9年)には、東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、13 - 16は「6, 8, 10, 12」に、24 - 27は「34, 36, 38, 40」に改められた。 シャープ・スチュアート製の2両(36, 40)は、前述のように1882年に日本鉄道に譲渡され、同社のSS2/3形(16, 17)となった。官設鉄道に残った34, 38は、そのまま西部地区で使用されていたが、後(1890年頃?)に東部地区に転属。スティーブンソン製の4両についても、1884年から1885年にかけて東部地区に転属し、京浜間で使用された。 1894年(明治27年)には、スティーブンソン製の4両はF形に、シャープ・スチュアート製はG形に類別された。その際、シャープ・スチュアート製は、34は31に、38は32に改番されている。 1898年(明治31年)の鉄道作業局による分類では、両形式を統合してA4形となっている。 1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により、日本鉄道は買収・国有化され、同社に分かれていた2両は、再び官設鉄道に戻った。この買収を受けて1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、スティーブンソン製の4両は120形(120 - 123)に、シャープ・スチュアート製のうち官設鉄道にとどまっていた2両は130形(130, 131)に、日本鉄道から戻った2両は140形(140, 141)に改められている。 その後、数年のうちに本グループは淘汰の対象となり、1912年(明治45年)から1915年(大正4年)にかけて、地方私鉄などに譲渡された。譲渡後も私鉄の間を転々としたものが多く、中にはその私鉄の国有化によって、再度あるいは三度も国有鉄道に籍を移したものがある。移籍の状況については、次のとおりである。 120と122は、1914年(大正3年)5月に三河鉄道(現在の名古屋鉄道三河線)に払下げられ、鉄道院時代の番号のまま使用された。1925年(大正14年)に同鉄道の電化により休車となり、1934年(昭和9年)ごろ解体された。 121と123は、1915年3月に簸上鉄道(現在のJR西日本木次線の一部)に払下げられ、同社の1, 2となった。 そのうちの2は、1926年(大正15年)に加悦鉄道に譲渡されたが、1は1934年(昭和9年)8月の簸上鉄道国有化により、再び国有鉄道(鉄道省)籍に戻り、帳簿上は旧番の121に復したが、翌1935年(昭和10年)には、南総鉄道に再び譲渡され、同社の1となった。しかし、南総鉄道は1939年(昭和14年)に廃止され、その後の消息は不明になっている。 130と140は、1913年(大正2年)に宮崎県営鉄道(現在のJR九州日豊本線及び妻線の一部)に払下げられ、鉄道院時代の番号のまま使用された。1917年(大正6年)9月に宮崎県営鉄道は国有化され、両機は再び国有鉄道籍に戻った。 130は、1919年(大正8年)に防石鉄道に譲渡され、旧番号のまま使用された。同機は1940年(昭和15年)に台湾に売却されたが、その後の消息は不明である。 一方140は、1922年(大正11年)に阿南鉄道(現在のJR四国牟岐線の一部)に譲渡され、旧番号のまま使用された。阿南鉄道も1936年(昭和11年)7月に国有化され、同機は三度国有鉄道籍に戻った。再々買収後の1940年に越中鉄道(後の富山地方鉄道射水線及び現在の万葉線新湊港線)に譲渡された。1942年(昭和17年)に東北本線村崎野にあった国際軽銀(東北化学肥料)専用線に売却され、1952年(昭和27年)に解体された。 131と141については、1912年3月に内務省土木局に保管転換され、直轄河川の工事用に使用されたが、詳細は不明である。
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「国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
本形式は、官設鉄道が輸入を仲介したことから、官設鉄道の番号体系にいったん組み込まれ、東部地区用の奇数番号(35 - 57)を付与された。日本鉄道独立後は、Dbt2/4形(4 - 15)と改められた。1906年制定の鉄道国有法により日本鉄道が買収・国有化されると、1909年に5230形(5230 - 5241)に改番されている。 その後は、総武線や房総線で使用され、1924年(大正13年)11月に全車が廃車された。譲渡機はない。 興味深いのは、日本鉄道独立後も官設鉄道が形式Qを付与していることで、官設鉄道が一部をかなりの長期間借受けていたことに由来していると推定されている。
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「国鉄5130形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
本形式は、大宮工場が製作した機関車の第1号である。予備部品を使用した1両限りのデッドコピー機ではあるが、この時期に私鉄の工場が蒸気機関車を製造したことは、記念されてよいであろう。 落成時の形式は、Obt2/4形といい、番号は3(2代目)であった。大宮に配置され、主に東北本線で使用された。日本鉄道の買収・国有化後の1909年に5270形(5270)に改められ、関西に移ったが、同系の僚機よりも早い1922年(大正11年)に廃車となった。
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「国鉄5300形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
本形式は日本鉄道の開業用として、1882年に2両(製造番号2161,2162)が製造、輸入された日本初の「ピーテン」である。当時の方法に則り、官設鉄道が輸入を代行しており、一旦官設鉄道籍に入ってから、日本鉄道に振り向けられた。官設鉄道では、R形(31, 33)となったが、1893年(明治26年)に正式に日本鉄道に譲渡され、Pbt2/4形(2,1(2代))となった。 官設鉄道では、1888年(明治21年)に翌年に予定された東海道線全通時の増強用として12両(製造番号2990 - 2995, 2999 - 3004)を注文し、翌年納入された。官設鉄道では、先に日本鉄道用に振り向けたものと同じR形に編入し、106 - 128(偶数)に付番した。このときのものは、日本鉄道のものより蒸気圧力が上げられて、9.8kg/cm2となっている。1892年には114 - 126(偶数)の7両が東部、106 - 108(偶数)、128の5両が西部に配置されており、1893年には77 - 84, 86 - 92(偶数)に改番された。1898年(明治31年)の鉄道作業局の形式称号規程では、D5形に類別された。 山陽鉄道では、1890年に10両(製造番号3132 - 3141)を輸入し、形式3(9 - 18)とした。山陽鉄道のものは、ボイラーを新設計のものとし、運転室の幅を拡大しており、第2動輪のスプラッシャーは、運転室側面と一体ではなくなっている。 日本鉄道と山陽鉄道の14両は、1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法により、両社が買収・国有化されたのにともない、官設鉄道籍となり、1909年(明治42年)の鉄道院の車両形式称号規程では、5300形(5300 - 5323)となった。新旧番号対照は、次のとおりである。 官設鉄道 D5形(77 - 84, 86, 88, 90, 92) → 5300形(5300 - 5311) 日本鉄道 Pbt2/4形(1, 2) → 5300形(5312, 5313) 山陽鉄道 形式3(9 - 18) → 5300形(5314 - 5323) 国有化後は、官設鉄道の12両は中部鉄道局に配置され、東海道線および北陸線で使用されていたようである。山陽鉄道の10両は山陽線東部に配置され、京都や大阪から乗り入れる急行・直行列車の牽引に充てられていた。その後、5314, 5316, 5319 - 5321, 5323の6両は中部鉄道局に転用され、さらにその後の移動により、1911年(明治44年)10月末には22両が中部鉄道局に揃っていた。 一方、旧日本鉄道の5312, 5313は、東部鉄道局に配置され、錦糸町庫で入換専用になっていたが、1914年(大正3年)2月に東武鉄道に譲渡され、同社のB2形(27, 28)となった。 鉄道院に残った22両は、当時急速に開業しつつあったローカル線で使用するため、1921年(大正10年)から1923年(大正12年)にかけ、浜松工場で4-4-2(2B1)型のタンク機関車960形(960 - 981)に改造され、この改造の終了をもって5300形は消滅した。
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運転・経歴
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「国鉄7010形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1874年に来着したキットソン製の4両は、17 - 20と付番され、阪神間の貨物列車用として12月から使用を開始した。1876年に来着したバルカン製の4両も、28 - 31と付番され、阪神間で使用された。また、同年に東部(京浜間)の機関車を奇数に、西部(阪神間)の機関車を偶数とする改番が実施され、17 - 19は14, 16, 18(20は不変)に、29, 31は26, 32(28, 30は不変)に改められた。 前述のように、1876年にはキットソン製の2両(18, 20)が旅客用の4-4-0(2B)テンダー機関車に改造されている(詳細は、5100形の節で記述する)。 これらC形のテンダー機関車は、阪神間の鉄道が京都、大津と伸びるに従って延長区間でも使用された。1882年に長浜 - 金ヶ崎(現在の敦賀港)間の鉄道が開業すると、2両がこちらに移っている。 1894年(明治27年)には、キットソン製、バルカン製ともU形に類別されたが、1898年(明治31年)の鉄道作業局による分類では、E1形となり、同時にバルカン製の4両(26, 28, 30, 32)は、25, 27, 29, 30に改番された。 1906年(明治39年)に制定された鉄道国有法を受け、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の形式称号規程では、製造メーカーが違うことから形式が分けられ、キットソン製の2両は「7010形」(7010,7011)に、バルカン製の4両は「7030形」(7030 - 7033)に改められている。 この時点で、7010, 7011は北海道鉄道管理局、7030 - 7032は中部鉄道管理局、7033は西部鉄道管理局に配置されていた。 7010, 7011は、建設用として滝川-下富良野間などで使われたが、1914年11月に石狩石炭(株)(1915年(大正4年)に美唄鉄道に譲渡)に払下げられ、芦別鉱業所専用鉄道で使用された。同社では、鉄道院時代のままの番号で使用され、7011は1940年(昭和15年)に樺太の三菱石炭油化工業(株)に移ったが、太平洋戦争後の消息は不明である。7010も1946年(昭和21年)に三井鉱山(株)に譲渡され、美唄鉄道盤の沢駅に隣接する新美唄鉱で使用された。1947年(昭和22年)には同社美唄鉱業所に移籍、1952年(昭和27年)10月まで使用された。 7032, 7033は、1915年4月に越後鉄道(現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)越後線、弥彦線)に払下げられ、同社の8, 9となったが、9は1915年8月21日にボイラー爆発事故を起こし大破、1916年3月に7031とともに廃車となった7030が代わって引き渡され、2代目の9となった。 1927年(昭和2年)10月には、越後鉄道が買収・国有化されたため、両機は国有鉄道籍に戻り、再び「7030形」となったが、旧番には戻らず、番号順に7030, 7031(いずれも2代目)となった。しかし、1929年(昭和4年)10月には、両機とも廃車解体されている。
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運転・経歴
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「国鉄7010形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
改造により、大きく形態の変わった両機であったが、番号は18, 20のままで変更されなかった。西部地区に配属され、1877年(明治10年)2月5日の京阪神間鉄道開通式には、いずれかがお召し列車を牽引している。 それ以後も、西部地区に配属されており、1891年5月の大津事件の際には、20がお召し列車を牽引しており、1901年頃には、18が1(後の150形)とともに大阪駅で入換に使用されているのが実見されている。また、一時期名古屋や富山周辺で使用されたこともあったようである。 1894年には、N形に類別され、1898年の鉄道作業局による分類では、D2形となった。 1909年の鉄道院の形式称号規程では、形式を5100形と定められ、番号は5100, 5101に改められた。この時点では、2両とも西部鉄道管理局に配属され、神戸駅の入換用に使用されていたが、1918年(大正7年)8月21日付けで2両とも廃車となっている。 廃車後、両機は神戸機関庫構内に留置されていたが、同年11月28日、加減弁とブレーキを閉め忘れていた3382(3380形)が自然に動き出し、5101と221(220形)を押し出して、海に転落させるという事故が起こり、川崎造船所からクレーン船を借り出して引き上げるという騒ぎになっている。 引き上げられた5101は、1920年(大正9年)7月に5100とともに相模鉄道(現在のJR東日本相模線)に払下げられ、番号順に100, 101となった。100は、1927年(昭和2年)に加悦鉄道に譲渡され、同社の1となったが、1937年(昭和12年)に廃車解体されている。廃車直前に訪れたファンの実見によれば、加悦鉄道1の弁装置はジョイ式であり、同機は20の後身ということになる。時期は不明であるが、番号の振替えが行われていたものと思われる。 101は、1930年代になると使用されなくなり、茅ケ崎の車庫に突っ込まれたままとなっていた。1942年(昭和17年)頃に尼崎の住友金属に貸し出されたが、その用途、目的はよくわかっていない。1950年(昭和25年)に返却され、厚木に留置されたが、間もなく解体された。
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運転・経歴
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「国鉄5500形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
官設鉄道は東海道線の増強用としてベイヤー・ピーコック社に6両を発注した。製造番号は3597 - 3602。官設鉄道での形式番号は、計画時は形式AF (226 - 231) だったが、組立て完了までに番号が142 - 147に改番された。落成後は、東海道線中部の静岡機関庫などに配置されたが、後に142 - 144, 146は奥羽南線でも使用された。1898年(明治31年)には、ニールソン社製の5630形とともにD6形に改められた。 日本鉄道では、1894年(明治27年)に同形機をPbt2/4形として12両を輸入した。こちらはボイラーの仕様が官設鉄道のものと若干異なり、整備重量も重かった。日本鉄道では、1897年(明治30年)に36両、1898年に12両を増備したが、1898年製の3次車は、第1動輪のスプラッシャー前方の砂箱を大型化している。 日本鉄道所属車の、製造番号及び番号は次のとおりである。 1894年製 製造番号3640 - 3651 番号93 - 104 1897年製 製造番号3889 - 3924 番号153 - 188 1898年製 製造番号4014 - 4025 番号189 - 200 1906年に公布された鉄道国有法により、日本鉄道と総武鉄道は買収・国有化され、両社に所属した66両が官設鉄道に編入された。これを受けて1909年に制定された鉄道院の車両形式称号規程により、官設鉄道のD6形及び旧日本鉄道のPbt2/4形、旧総武鉄道の16 - 21は5500形と定められ、官設鉄道の6両が5500 - 5505、旧日本鉄道の60両が5506 - 5565、旧総武鉄道の6両が5566 - 5571に改められた。 官設鉄道の5500 - 5505は、この頃には北陸線に移っており、中部鉄道局に所属していた。その後は、西部鉄道局に移り、山陰線の豊岡や米子に配置されたが、1921年(大正10年)6月に東京鉄道局に転じている。 旧日本鉄道・総武鉄道の66両は、高崎線、東北線、総武線の主力として使用されたが、一部は蒸気圧力を12.2kg/cm2に上げて気筒直径を縮小し、奥羽線に転用された。また、信越線北部および羽越線に転用されたものもあり、1923年(大正12年)6月の仙台鉄道局新津運輸事務所管内には5539 - 5552の14両が配置されていたと記録されている。総武線へは、国有化後に5500形が増備され、やがて房総線でも使用された。 1923年9月1日に発生した関東大震災では、実に9両の5500形(5526(品川庫), 5528, 5530(千葉庫), 5560, 5564, 5567, 5569(錦糸町庫), 5557, 5558(安房北条庫))が被災しているが、幸いにも廃車は発生していない。 1925年(大正14年)に仙台鉄道局配置の3両 (5541, 5544, 5549) が東武鉄道に譲渡され、1929年(昭和4年)および1930年(昭和5年)には、12両 (5509, 5511, 5519, 5523, 5536, 5554, 5556, 5559, 5561, 5563, 5567, 5569) が廃車となり、10両 (5506, 5507, 5510, 5512, 5515, 5527, 5534, 5557, 5558, 5565) は、B10形2B1タンク機関車に改造された。 1933年(昭和8年)6月現在で、東京鉄道局に36両、仙台鉄道局に11両の計47両が配置されていたが、東京鉄道局配属車のうち17両は休車で、稼働車はすべて入換専用であった。東京鉄道局では、1935年(昭和10年)3月までに、先の休車17両に2両を加えた19両 (5503, 5504, 5514, 5516, 5517, 5518, 5520, 5521, 5522, 5524, 5526, 5528, 5529, 5531, 5532, 5533, 5562, 5564, 5566) が廃車となった。 仙台鉄道局の11両は、越後線で使用されていたが、1939年(昭和14年)までに6250形に置き換えられ、5539, 5540, 5543, 5545, 5547を残して廃車された。このうち、5531,5551は東武鉄道に、5542は三井三池港務所に、5552は寿都鉄道に、5560は日本曹達天塩鉱業所に譲渡された。 太平洋戦争後の1947年(昭和22年)1月には5546が三岐鉄道に、5548が名古屋鉄道に譲渡された。この頃には、22両が飯田町、横浜、国府津で入換専用で使用されている。 1952年(昭和27年)10月17日、鉄道開業80周年記念行事の一つとして、東横浜 - 汐留間に蒸気列車「汽笛一声号」が運転されることとなり、その牽引を5500形が務めることになった。当時横浜機関区に在籍していた5500形7両 (5501, 5513, 5530, 5537, 5538, 5570, 5571) のうち、最も状態の良かった5571に5501のナンバープレートを取付けて運転したが、これらも1955年(昭和30年)9月に廃車され、5500形は施設局に5508, 5540, 5543, 5553の4両を残すのみとなった。 1961年(昭和36年)に、翌年の鉄道開業90周年を記念して開設されることとなった青梅鉄道公園での保存機として5540が選ばれ、残りの3両は解体された。これをもって、国鉄の5500形はすべて姿を消した。 ベイヤー・ピーコック製の本形式は、80年もの間使用されながらも気筒とピストンの磨耗がほとんどなく、検査時にも気筒のプッシングの必要がまったくなかったという。後年、国鉄研究所では、その材質を分析したが、リンの含有量が少し多いという以外、金属の材質からはその理由が全く解明できなかったという。
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運転・経歴
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「国鉄7100形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
1880年11月28日、手宮駅 - 札幌駅間が開業し、1「義經」と2「辨慶」の使用が開始された。先立つ同年10月には試運転にも投入されている。翌1881年(明治13年)8月30日には、明治天皇がこの区間に乗車し、「義經」が「開拓使号」客車を含むボギー客車9両編成のお召し列車を牽引している。 1882年11月13日には札幌 - 幌内間が延伸開業し、3「比羅夫」と4「光圀」が増備されている。その後、5「信廣」と6「しづか」が増備されたが、1887年の増備はやや大型のボールドウィン製の1C形テンダー機関車(7, 8。後の7170形)となった。1889年には、再びポーター製が2両増備され「9, 10」となったが、後に前述の「7, 8」と番号を交換(10, 9→7, 8)し、ポーター製を「1 - 8」に揃えている。 北有社による請負営業を経て、1889年12月10日、幌内鉄道は北海道炭礦鉄道に払下げられ、本形式も同社に引き継がれた。北海道炭礦鉄道ではA形(1 - 8)、後にイ形とした。 北海道炭礦鉄道では、本形に対し煙室の延長やダイヤモンド形煙突のパイプ形への交換、カウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれていった。1899年(明治32年)には、7が北海道庁鉄道部(北海道官設鉄道)に譲渡され、同部のB2形(11)となっている。同機は、煙突や煙室の改造が施行されておらず、原形に近い形態を保っていた。だが、いずれにしても、営業列車に使用されることはほとんどなく、主に建設工事や除雪用に使われていたようである。1905年4月1日の官設鉄道(鉄道作業局)編入後はEc形と称した。 前述のように、1906年10月1日、北海道炭礦鉄道は買収・国有化され、官設鉄道に編入された。前年4月に移管されていた北海道官設鉄道の1両を含めて、本形の8両全部が官設鉄道に引き継がれた。1909年(明治42年)には、鉄道院の車両称号規程が制定され、7100形(7100 - 7107)に改められた。公式の改番は次のとおりである。 旧北海道官設鉄道11(B2形), 旧北海道炭礦鉄道1 - 6, 8(形式イ) → 7100 - 7107 この時の改番であるが、実際の番号と現車の製造番号の間の関係に相当の乱れが生じている。これは、製造銘板がボイラーに取り付けられていたことと、北海道炭礦鉄道では修繕の効率化のため、足回りとボイラーを別々に管理しており、相互の振替えが頻繁に行なわれていたために生じたもので、本形が3両も保存されることとなる遠因となっている(この詳細については、次節で述べる)。 この時点で、7103が入換用に、他の7両が北海道庁建設事務所に貸出され建設用に使用されていた。 1915年(大正4年)には粘着力の増大を図るため、先輪を撤去する改造を函館工場で施行されたが、蛇行動がひどくなり、すぐに復旧されている。ただし、改造の記録が確認できるのは7103のみで、復旧の記録もなく、全車に施行されたかどうかは疑わしい。 その後、1917年(大正6年)に7106が廃車され、日本製鋼所室蘭製作所に売却されたのを皮切りに、7103が1922年(大正11年)に廃車され、由仁軌道への譲渡が予定されたが、キャンセルされ、以降の消息は不明となっている。1923年(大正12年)に7100, 7102, 7104, 7105, 7107が廃車となり、7100, 7102, 7107が北海道建設事務所に、1925年(大正14年)には7104, 7105が梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)に譲渡されている。7101は保存のため東京に送られた後の1924年(大正13年)に廃車となっている。 梅鉢鐵工所に譲渡された7104は、後に高知鉄道(後の土佐電気鉄道安芸線)の建設用に譲渡されたが、工事完成後に解体された。
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運転・経歴
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「国鉄5490形蒸気機関車」の記事における「運転・経歴」の解説
輸入当初の本形式は、東部地区に配属され27, 29と付番された。後に西部(神戸)地区に移り、1893年(明治26年)の日本鉄道分離の際にS形 (26, 28) に改められた。1898年(明治31年)の鉄道作業局ではD3形と定められ、一時奥羽線に転用されていたようである。 鉄道国有法施行を受けて1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では5490形 (5490, 5491) となっており、中部鉄道局に配置されて北陸線富山付近で使用されていたと推定されている。 その後、5490が1918年(大正7年)11月に成田鉄道(現在のJR東日本成田線の一部)に譲渡され、同社の10となった。成田鉄道は1920年(大正9年)9月に買収・国有化されたため、再び国有鉄道籍となったが、翌1921年(大正10年)に廃車解体された。 一方、5491は1919年(大正8年)3月に筑波鉄道に譲渡され同社の4となり、1937年(昭和12年)まで使用された。筑波鉄道時代の同機のスプラッシャーは、第1動輪のものと第2動輪のものが分離した形態になっていたが、これが改造時からのものであったのか、その後に改造されたものなのかは、両説あって定かでない。
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運転経歴
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「トーネス原子力発電所」の記事における「運転経歴」の解説
事故の詳細は健康安全局の原子力施設での事故の四半期ごとの報告書を記したインターネットサイトや原子力認可施設の四半期ごとの検査報告書に公表されている。
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