越後鉄道
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「国鉄1260形蒸気機関車」の記事における「越後鉄道」の解説
越後鉄道(現在の東日本旅客鉄道越後線、弥彦線)へは、1922年製の2両が入り、16, 17と付番された。1927年(昭和2年)の越後鉄道国有化にともなって、1740形(1740, 1741)と改番された。この機関車の動輪径は1,067mmであったが、簸上鉄道のものに比べて側水槽が大きく、原形となった1480形並みの容量があった。 ブレーキ装置は真空ブレーキと手ブレーキであったが、国有化後に真空ブレーキは空気ブレーキに改められた。越後線などで使用されたが、1937年(昭和12年)に1両が札幌鉄道局に移動し、1942年(昭和17年)に2両とも廃車となった。
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越後鉄道
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信越本線が柏崎から内陸部に入り、長岡、三条を経由することとなったため、柏崎から日本海沿岸を経由して新潟に至る鉄道が計画された。これが越後線の前身である越後鉄道(えちごてつどう)である。越後鉄道は1912年(大正元年)から翌年にかけて全通した。しかし、越後鉄道は資金不足のため信濃川に架橋することができず、新潟側のターミナルは信越本線新潟駅とは信濃川を隔てた対岸の白山に置かれた。 越後鉄道は経営難に苦しみ、政治工作によって度々国有化を要請したが容易に実現しなかった。 1927年(昭和2年)1月、水戸鉄道(のちの水郡線)・陸奥鉄道(のちの五能線)・苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道(のちの日高本線)の4私鉄に加えて越後鉄道の買収案が突如浮上、相前後して白山 - 新発田間の新線案(のちの白新線)も提示された。紛糾の末に国会議決を経て5社の国有化が決定、越後鉄道は同年10月に国有化された。 五私鉄の国有化は当初から政治的意図が指摘されたが、特に越後鉄道については強い政治介入がささやかれており、のち1929年(昭和4年)に「越後鉄道疑獄」として表面化、元文部大臣小橋一太が収賄容疑で起訴される事態となった。
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