越後長岡藩士として
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能勢正信(七郎右衛門)の次男正重は父正信の出奔後も真木氏と不和のため藩主康成のとりなしで真木氏と和睦した。元和4年(1618年)の長岡御打ち入りに随従した正重はこのためか知行400石となっていた。 その後、この能勢籐七の系統は先法家の家格を定められて藩内で尊重された。2代目能勢藤七(三郎右衛門)は正保元年(1644年)さらに弟藤次郎に50石を分与して350石まで家禄を減じたが、御番頭・寺社奉行を歴任し、また藩主の御鷹の山を預かった。延宝4年(1676年)には幼君(後の二代藩主忠成)の守役を勤めるなど重用され、翌延宝5年には加増され知行400石に復した。また、4代目(三郎右衛門)は、寛保元年(1741年)には御奉行上座を勤め知行500石を受け(『寛保分限帳』)、その後さらに中老職・600石に加増された(『諸士由緒記』)、以後この家は各代知行600石を世襲した。
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越後長岡藩士として
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越後長岡藩士・小林儀右衛門(2代目)の惣領。祖父となる小林儀右衛門(初代)が、越後長岡藩の儒臣として新知を給付されていた。小林藹は、この家系の家督を相続した。 青年期は戊辰戦争・北越戦争に遭遇して従軍。その後、大混乱した明治維新期の越後長岡藩の公用人として活躍。 一度は、江戸城開城で引き払った越後長岡藩江戸屋敷に戻り、明治政府及び越後長岡藩の支藩である小諸藩との折衝・連絡役として重要な役割を果たしていた。 越後長岡藩は、戦争責任によって、領地をおよそ3分の1に減封されたことから、藩士も大幅な家禄の減知に迫られたが、小林藹は減知とならなかったので、相対的には加増となったと解釈できる。 越後長岡藩は戊辰戦争・北越戦争で敗北していたが、小諸藩は大勢順応で、官軍に対して恭順する一方で、本藩となる長岡に対する攻撃のための派兵は命じられなかった。官軍と戦って敗走していた越後長岡藩士が、官軍に恭順していた支藩の小諸を頼って脱走し、一時匿まわれるということがあった。 小諸藩主・牧野康済は、家老・加藤六郎兵衛成美から虚偽の新政府刑法官の内旨を奏上され、家老・真木要人則道、家老・牧野八郎左衛門成道等、計4名に対して逆賊を匿った罪により斬首刑を命じて、1868年11月9日に執行した。 やがて、処刑者4名と犬猿の仲であった家老・加藤の陰謀であったことが発覚して小諸藩は統治不能となった(小諸騒動)。小諸騒動前後の小諸藩史料に、小林藹の姓名がしばしば登場する。 小林藹に関する史料は、司法官としてのものより、それ以前の江戸在勤当時の越後長岡藩公用人としてのもののほうが多く残り、その史料的価値も高い。
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