越後騒動と荻田家
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「葵梶葉文染分辻が花染小袖」の記事における「越後騒動と荻田家」の解説
荻田長繁の後は、子の荻田勝定、続いて孫の荻田長磐が高田藩次席家老、清崎城代を勤めた。寛文5年12月27日(1666年2月1日)に発生した越後高田地震時、冬季の積雪の上に激しい地震動が加わて高田城下の荻田家の屋敷は倒壊し、長磐は圧死した。荻田長磐の跡は子の荻田本繁が継いだ。なお荻田長磐は祖父、長繁が大坂夏の陣での戦功を賞され、「家康公の御肌着」を賜ったとの内容を含む覚書を残している。この覚書の最終の記述は承応2年12月21日(1654年2月8日)であり、大坂の陣の後、約40年後に記述された覚書であると推定されている。 越後高田地震後、荻田本繁は筆頭家老の小栗美作とともに藩主松平光長を補佐し、藩政を担っていた。筆頭家老の小栗美作は藩の実権を握り、地震からの復興と藩政改革を押し進めた。そのような中、延宝2年(1674年)、藩主光長の嫡子、松平綱賢が亡くなった。綱賢には男子は無く、藩主光長にも綱賢以外の男子が無かったため、高田藩としては後継者を決めなければならなかった。結局、小栗美作が推す藩主光長の弟、永見市正の子、万徳丸が後継者に決定した。 延宝7年(1679年)1月、高田藩士の約3分の1にあたる700名から800名の藩士が、荻田本繁に小栗美作らの非法を訴える誓詞を提出する。これは藩政改革を押し進める小栗美作の施策に対する藩士、領民らの反発に加え、嫡子綱賢が亡くなった後の後継者決定問題が尾を引いていた。その後、高田藩では小栗美作派「逆意方」と荻田本繁派「お為方」が激しく対立する越後騒動が始まる。幕府は藩主光長の親族である大名家とともに調停を行ったが不調に終わり、結局騒動は幕府評定所による裁定に委ねられることになり、延宝9年10月19日(1679年11月22日)、将軍徳川家綱の上意によって、お為方の主要メンバーが諸藩に預けられることになった。一方、逆意方に対する処罰は無かった。お為方のリーダーであった荻田本繁は、松江藩預けとなった。また本繁の2人の男子、荻田民部と荻田久米之助も父とともに松江藩預けとなった。荻田父子を預かることになった松江藩は、松江城内に荻田配所を立てて収容、監視することになった。 お為方の処罰後、不満を募らせたお為方藩士の脱藩が相次ぎ、領民も幕府の諸国巡見使に高田藩の失政について訴訟を行うなど、騒動が沈静化することは無かった。延宝8年(1680年)末には幕府評定所による再吟味が決定され、延宝9年6月21日(1681年8月4日)には将軍徳川綱吉による親裁が行われた。結局、藩主松平光長は改易され、逆意方の小栗美作親子は切腹、そしてお為方の荻田本繁は八丈島に遠島と、高田藩、そして逆意方、お為方双方にとって厳しい判決が下された。父、荻田本繁が八丈島に遠島になった後も、子の荻田民部と荻田久米之助は松江藩預かり処分が継続され、松江城内の荻田配所での生活が続いた。
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