越後騒動と荻田家とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 越後騒動と荻田家の意味・解説 

越後騒動と荻田家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 01:13 UTC 版)

葵梶葉文染分辻が花染小袖」の記事における「越後騒動と荻田家」の解説

荻田長繁の後は、子の荻田勝定続いて孫の荻田長磐高田藩次席家老清崎城代を勤めた寛文5年12月27日1666年2月1日)に発生した越後高田地震時、冬季積雪の上激し地震動が加わて高田城下の田家屋敷倒壊し、長磐は圧死した荻田長磐の跡は子の荻田本繁継いだ。なお荻田長磐祖父、長繁が大坂夏の陣での戦功賞され、「家康公の御肌着」を賜ったとの内容を含む覚書残している。この覚書最終記述承応2年12月21日1654年2月8日)であり、大坂の陣の後、約40年後に記述され覚書であると推定されている。 越後高田地震後、荻田本繁筆頭家老小栗美作とともに藩主松平光長補佐し藩政担っていた。筆頭家老小栗美作は藩の実権握り地震からの復興藩政改革押し進めたそのような中、延宝2年1674年)、藩主長の嫡子松平綱賢亡くなった。綱賢に男子無く藩主光長にも綱賢以外の男子無かったため、高田藩としては後継者決めなければならなかった。結局小栗美作推す藩主長の弟、永見市の子徳丸後継者決定した延宝7年1679年1月高田藩士の約3分の1にあたる700名から800名の藩士が、荻田本繁小栗美作らの非法訴え誓詞提出する。これは藩政改革押し進める小栗美作施策対す藩士領民らの反発加え嫡子綱賢が亡くなった後の後継者決定問題尾を引いていた。その後高田藩では小栗美作派「逆意方」と荻田本繁派「お為方」が激しく対立する越後騒動が始まる。幕府藩主長の親族である大名家とともに調停行った不調に終わり結局騒動幕府評定所による裁定委ねられることになり、延宝9年10月19日1679年11月22日)、将軍徳川家綱の上意によって、お為方の主要メンバー諸藩預けられることになった一方逆意方に対す処罰無かったお為方のリーダーであった荻田本繁は、松江藩預けとなった。また本繁の2人男子民部田久米之助も父とともに松江藩預けとなった父子を預かることになった松江藩は、松江城内に配所立てて収容監視することになったお為方の処罰後、不満を募らせお為藩士脱藩が相次ぎ領民幕府諸国巡見使高田藩失政について訴訟を行うなど、騒動沈静化することは無かった延宝8年1680年)末には幕府評定所による再吟味決定され延宝9年6月21日1681年8月4日)には将軍徳川綱吉による親裁が行われた。結局藩主松平光長改易され、逆意方の小栗美作親子切腹、そしてお為方の荻田本繁八丈島遠島と、高田藩、そして逆意方、お為双方にとって厳し判決下された。父、荻田本繁八丈島遠島になった後も、子の民部田久米之助は松江藩預かり処分継続され松江城内の配所での生活が続いた

※この「越後騒動と荻田家」の解説は、「葵梶葉文染分辻が花染小袖」の解説の一部です。
「越後騒動と荻田家」を含む「葵梶葉文染分辻が花染小袖」の記事については、「葵梶葉文染分辻が花染小袖」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「越後騒動と荻田家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「越後騒動と荻田家」の関連用語

1
6% |||||

越後騒動と荻田家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



越後騒動と荻田家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの葵梶葉文染分辻が花染小袖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS