越後黒川氏
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平姓(桓武平氏)三浦氏流和田氏の一族で、越後揚北衆の一つ。越後和田氏とも呼ばれる。 治承・寿永の乱(源平合戦)において功績を挙げた和田義茂が奥山荘地頭となったのが、越後和田氏の始まりであり、和田合戦で和田氏のほとんどが没落した後も、幕府方として活動した和田重茂(高井重茂)の子孫が残り、その重茂の子孫も宝治合戦において三浦氏に味方しやはり没落するが、重茂の子である時茂が生き抜き、その子孫が越後国奥山荘に土着した。 和田茂長の代に分割相続の結果、茂長の子孫は黒川城に居城し黒川氏と名乗った。 鎌倉時代末期、黒川茂実は新田義貞に属して鎌倉攻めに従軍。その功により建武政権より奥山荘庄中条・金山を与えられたが、越後和田氏の嫡流で同族の中条氏の領土であったため、以降戦国時代まで中条氏とは領土問題などをめぐり争いが絶えず、越後における内乱の際にはしばしば敵味方に分かれ対立した。 南北朝時代には北朝方として中条氏・色部氏らとともに南朝方の小国氏を討っている。観応の擾乱では足利尊氏に従ったが、正平7年(1352年)足利直義方の上杉憲顕が大軍で黒川城を包囲、落城し降伏した。以降は越後守護上杉氏及び守護代長尾氏に従い、加治四郎の討伐や佐渡征伐で活躍した。 室町時代に入った応永30年(1423年)、守護代長尾邦景の挙兵による応永の乱で、黒川時実は加地氏・新発田氏・北条氏・安田氏らと共に越後守護上杉房朝に背反して黒川城に拠り、房朝を自害寸前に追い込んだが上杉頼藤の援軍により守護方が優勢となり降伏。その後守護方の滑沢氏により館に夜討をかけられ黒川基実は胎内川河畔の並槻河原で戦ったが奮戦虚しく自害した。基実の子弥福丸(黒川氏実)は、伯父の中条房資に助けられ出羽大宝寺城主武藤氏のもとに逃がれた。黒川氏の旧領は守護に編入されたが、長尾邦景の斡旋で越後に戻った氏実は中条房資らととも守護上杉氏に従い失地回復に奔走した。しかし応永33年(1426年)、守護代方の三条城主山吉氏を攻撃中、長尾定景・長尾高景が山吉氏の援軍として発すると、氏実は守護代方に寝返り中条房資を攻撃。鳥坂城を攻め落とす。房資は河間城へ退却したがその後攻勢に転じ、最終的に氏実は守護方に降伏。しかしその後も黒川氏は度々守護上杉氏に対して叛乱を起こしている。 戦国時代になり、上条定憲が挙兵した上条の乱では守護代長尾為景に従い、為景の没後は長尾晴景、景虎(上杉謙信)と仕えた。謙信死後の御館の乱では、黒川清実は上杉景虎に加担し上杉景勝方の中条氏を攻めて鳥坂城を占領したが、逆にその間隙を衝いて中条氏の一族の築地資豊に攻められている。翌年には景勝によって黒川城は落城。乱は景勝が勝利し、清実も伊達輝宗の仲介で景勝に降伏。以降は景勝に従った。 子孫は引き続き上杉氏に仕え、上杉氏が陸奥会津に転封されるとこれに従い、子孫は米沢藩士となった。
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