越後黒川氏とは? わかりやすく解説

越後黒川氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 10:00 UTC 版)

黒川氏」の記事における「越後黒川氏」の解説

平姓桓武平氏三浦氏和田氏一族で、越後揚北衆一つ越後和田氏とも呼ばれる治承・寿永の乱源平合戦)において功績挙げた和田義茂奥山荘地頭となったのが、越後和田氏始まりであり、和田合戦和田氏のほとんどが没落した後も、幕府方として活動した和田重茂(高井重茂の子孫が残り、その重茂の子孫も宝治合戦において三浦氏味方しやはり没落するが、重茂の子である時茂が生き抜きその子孫越後国奥山荘土着した。 和田長の代に分割相続結果、茂長の子孫黒川城居城黒川氏名乗った鎌倉時代末期黒川茂実は新田義貞属して鎌倉攻め従軍。その功により建武政権より奥山荘中条金山与えられたが、越後和田氏嫡流同族中条氏領土であったため、以降戦国時代まで中条氏とは領土問題などをめぐり争い絶えず、越後における内乱の際にはしばし敵味方分かれ対立した南北朝時代には北朝方として中条氏色部氏とともに南朝方の小国氏討っている。観応の擾乱では足利尊氏従ったが、正平7年1352年足利直義の上憲顕が大軍黒川城包囲落城降伏した以降越後守上杉氏及び守護代長尾氏従い加治四郎討伐佐渡征伐活躍した室町時代入った応永30年1423年)、守護代長尾邦景挙兵による応永の乱で、黒川時実加地氏新発田氏北条氏安田氏と共に越後守上杉房朝背反して黒川城拠り、房朝を自害寸前追い込んだ上杉援軍により守護方が優勢となり降伏その後守護方の滑沢氏により館に夜討かけられ黒川基実は胎内川河畔並槻河原戦った奮戦虚しく自害した。基実の子弥福丸黒川氏実)は、伯父中条房資に助けられ出羽大宝寺城武藤氏のもとに逃がれた。黒川氏旧領守護編入されたが、長尾邦景斡旋越後戻った氏実は中条房資らととも守護上杉氏従い失地回復奔走した。しかし応永33年1426年)、守護代方の三条城山吉氏攻撃中、長尾定景長尾高景山吉氏援軍として発すると、氏実は守護代方に寝返り中条房資を攻撃鳥坂城攻め落とす。房資は河間城へ退却したその後攻勢転じ最終的に氏実は守護方に降伏。しかしその後黒川氏は度々守護上杉氏に対して叛乱起こしている。 戦国時代になり、上条定憲挙兵し上条の乱では守護代長尾為景従い、為景の没後長尾晴景景虎上杉謙信)と仕えた謙信死後御館の乱では、黒川清実上杉景虎加担し上杉景勝方の中条氏攻めて鳥坂城占領したが、逆にその間隙を衝いて中条氏一族築地資豊に攻められている。翌年には景勝によって黒川城落城。乱は景勝勝利し清実伊達輝宗仲介景勝降伏以降景勝従った子孫引き続き上杉氏仕え上杉氏陸奥会津転封されるとこれに従い子孫米沢藩となった

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