越後高田での治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 17:32 UTC 版)
政岑は処罰を受けたことがこたえたのか、寛保2年(1742年)に高田藩に移ってからは子の政純の後見人として藩政の再建に努めた。高田藩では歴代藩主の借財にあふれて財政が苦しかったが、政岑は率先して倹約に励み、新田500町歩の開墾や灌漑工事を行ない、さらに生活苦の多い農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励するなど、政務に励んだ。 寛保3年(1743年)2月19日に死去した。享年31。
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