信玄時代
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信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。 その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2年(1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。永禄5年(1562年)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。 永禄11年(1568年)の駿河攻めにも参加する。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城(浜松市天竜区只来)を攻略した。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川氏軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。
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信玄時代
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天文17年(1548年)、上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰が戦死した後は、武田軍団の中核となって信玄を支えた。 軍事面では常に最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城を長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の軍8000に囲まれた時には、僅か800の手勢で撃退した。また、『高白斎記』における同年の記述に「八月晦日甲辰飯富室カノ本城ヘ移ル」があり、室賀城(現・長野県上田市)へ入ったことがわかる。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど柱石として武田氏躍進に尽力すると共に、信玄の嫡男・義信の傅役(後見人)に任命されるなど、武田氏随一の宿老として重きを成した。
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