信玄時代とは? わかりやすく解説

信玄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:44 UTC 版)

馬場信春」の記事における「信玄時代」の解説

信玄武田氏当主となり、その直後から諏訪伊那いずれも信濃国攻めが始まると、これに参加して武功挙げたこのため信玄から、天文15年1546年)に信虎時代信虎当主馬場虎貞殺害されたために名跡絶えていた、甲斐武田氏譜代名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房改めたその後信玄信濃攻め参加して武功挙げたため、永禄2年1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆一人として列せられた。永禄4年1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍背後攻撃する別働隊の指揮任されと言われている。永禄5年1562年)には前年隠退した原虎胤あやかって美濃守名乗り許され馬場美濃守信春改名する永禄11年1568年)の駿河攻めにも参加する永禄12年1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍戦い武功挙げた元亀3年1572年)の信玄による西上作戦にも参加し信玄から一隊指揮任され只来城(浜松市天竜区只来)を攻略した三方ヶ原の戦いにも参加し徳川氏軍を浜松城下まで追い詰めるという武功挙げた

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信玄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:56 UTC 版)

飯富虎昌」の記事における「信玄時代」の解説

天文17年1548年)、上田原の戦い板垣信方甘利虎泰戦死した後は、武田軍団の中核となって信玄支えた軍事面では常に最前線に立ち、天文22年1553年)に自らが守備する内山城長尾景虎上杉謙信)・村上義清の軍8000囲まれ時には、僅か800の手勢で撃退したまた、高白斎記』における同年記述に「八月晦日甲辰飯富カノ本城ヘ移ル」があり、室賀城(現・長野県上田市)へ入ったことがわかる。永禄4年1561年)の第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃別働隊大将務めるなど柱石として武田氏躍進尽力すると共に信玄嫡男義信傅役後見人)に任命されるなど、武田氏随一宿老として重き成した

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