信長軍団の到着とは? わかりやすく解説

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信長軍団の到着

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:40 UTC 版)

「長篠の戦い」記事における「信長軍団の到着」の解説

信長30,000家康軍8,000は、5月18日長篠城手前設楽原に着陣設楽原は原と言っても小川や沢に沿って丘陵地南北幾つも連なる場所であったここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し30,000軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川連吾川を堀に見立てて防御陣の構築努める。これは、川を挟む台地両方斜面削って人工的な急斜面とし、さらに三重土塁[要出典]に馬防柵設けるという当時日本としては異例野戦築城だった。海外過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師往来理由として信長イタリア戦役知っていた可能性言及されることもある。つまり信長側は、無防備にい鉄砲隊を主力として柵・土塁守り武田騎馬隊迎え撃つ戦術を採った。 一方信長到着の報を受けた武田陣営では直ち軍議開かれた信玄時代からの重鎮たち、特に後代武田四名臣といわれる山県昌景馬場信春内藤昌秀らは信長自らの出陣知って撤退進言したと言われているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城牽制に3,000ほどを置き、残り12,000設楽原に向けた。これに対し信玄以来古くからの重臣たちは敗戦予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う。「信長公記」にある武田軍動きは、「長篠城武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢率いて滝沢川渡り織田軍と二十町(約2018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向き布陣した」というものである武田のこの動き見た信長は、「今回武田軍近く布陣しているのは天の与え機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い味方からは1人損害出さないようにしようと作戦考えた(『信長公記8巻』)。 相手油断誘ったという面もあるが、鉄砲主力とする守戦念頭に置いていたため、武田誘い込む狙いであった

※この「信長軍団の到着」の解説は、「長篠の戦い」の解説の一部です。
「信長軍団の到着」を含む「長篠の戦い」の記事については、「長篠の戦い」の概要を参照ください。

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