信隆と天童山館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 02:53 UTC 版)
天童山館は、鯵ヶ沢古城を構成した五館一城の一郭であったとされる。古書には、天童山には鯵ヶ沢古城掘切の城があったと記されており、一説には浪岡北畠氏の一族、天童丸の居館があったという。元和年間(1615年 - 1623年)、弘前藩によって天童山館を整備し、新たに鯵ヶ沢城として築城された。寛永12年(1635年)、ここに信隆が居城して、長松館と称し、この頃には新町をつくるために、天童山を崩したと伝えられている。正保2年(1645年)、藩政改革により百助信隆は館を離れる事となり、長松館も廃された。 現在弘前中央高校が立っているのは、百助信隆の広大な屋敷があった場所である。
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