信長正室待遇説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:14 UTC 版)
この説は基本的に『前野家文書』を土台とする。 吉乃が徳姫出産後の産褥で重症に陥っているのを信長が知らず、完成していた小牧山城の御台御殿(主は小牧殿と記載されている、正室・濃姫のことと推測される)に移るようにと生駒家に命じたことで、吉乃の兄の八右衛門が信長に吉乃の移動が難しいと相談に行き、初めて信長はその病を知った。そして信長自ら生駒屋敷に赴き、通常吉乃の身分では乗ることはできないはずの輿を差し向け、嫡男・信忠の生母として家臣達に披露され、拝謁を受ける。そして吉乃が小牧山城に移り住んだ後、信長は足しげく見舞うようになったなどと記述されている。 『前野家文書』においては信長が病を知らなかった期間は言明されていない。史実から計算するとこの期間は6年となる。6年もの間信長が吉乃の病を知らないということから、その間は疎遠になっていたことが読み取れる。ただし、『前野家文書』では、吉乃死亡時の永禄9年(1566年)に徳姫が5歳であったとしている。吉乃は小牧御殿に移った翌年に死亡とも記載されているので、『前野家文書』において信長は、4年間吉乃の病を知らなかったこととなる。また、御台御殿に座敷を与えられた時、初めて嫡男・信忠の生母として、側室の披露を受けたことも記述されている。それまでは『前野家文書』においても非公式の愛妾という立場であったことが分かる。 同じく『前野家文書』(武功夜話拾遺)には「先に清須に御移りは申四月日、小牧新御殿小牧殿の事」という記述があり、正室・濃姫が吉乃より先に信長と同居していたことが記されている。ただし「申四月日」をそのまま永禄3年(1560年)4月と考えると、信長は天文23年(1554年)に那古野城から清洲城に移っており、時期的に疑問が残る(あるいは単純に信長が清洲に移った「さる天文23年」4月の誤記か)。武功夜話拾遺においては、濃姫は弘治2年(1556年)3月に輿入れしたことになっているが(実際は天文18年(1549年)2月輿入れ)、当時那古野城には留守居役の林秀貞がおり、8月には秀貞が信長に敵対した稲生の戦いが起きていることもあり、那古野城に嫁ぐということも考えにくい。
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