信虎時代
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武田信虎の時代から武田氏に仕える。はじめは現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の一員であった。 武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれている。天文10年(1541年)の信玄の信虎追放計画に参加していたといわれている。
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信虎時代
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飯富氏は甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われる。別説に古代の多氏の末裔説がある。戦国時代の甲斐国では武田信虎家臣に飯富道悦がおり、『勝山記』によれば永正12年(1515年)10月17日に道閲は西郡の国人・大井信達との戦いにおいて子息とみられる「源四郎」と共に戦死している。この飯富源四郎が虎昌・山県昌景兄弟の父親にあたると考えられている。 永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸説があって定かではない。出身地は飯富村(現在の山梨県南巨摩郡身延町飯富)と伝わっている。 享禄4年(1531年)、今井信元・栗原兵庫らと共に信虎に反旗を翻したが、敗れて降参し、許されたのちは信虎に臣従した。天文5年(1536年)に北条氏綱が駿河国に侵攻すると、信虎と共に今川軍の援軍として参戦し、北条軍を大いに破った。天文7年(1538年)にも諏訪頼満・村上義清の連合軍と戦い、このとき寡兵であるにも関わらず、数で勝る連合軍を打ち破り、自らは首級97を挙げるという軍功を挙げたとまでされている。 天文10年(1541年)、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方、甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を駿河に追放し、以後は武田家の宿老として晴信をよく支えた。
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