信仰と善行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:04 UTC 版)
「キリスト教とユダヤ教」の記事における「信仰と善行」の解説
「義認の教理に関する共同宣言」も参照 ユダヤ教は、どうすれば正しく行動できるか人々に教えるのがトーラーの目的だとする。神の存在は、ユダヤ教にとっては自明の理であり、権威者のほとんどが信仰問題として必修だとは考えていない。トーラーはユダヤ人に神の信仰を命じていると専門家の一部はみなしているが、ユダヤ人は、ユダヤ教徒としての生活に神の信仰は、必要ではあっても十分ではない条件だと考えている。ユダヤ教を表す典型的な言葉は「イスラエルよ、聞け」である。これは、聖書の神は自分たちの神であり、唯一無二の存在であることを示す言葉である。ユダヤ教を表す典型的な行動は、トーラーに明記された戒律「613のミツワー」に従って行動し、神に従って人生を送ることである。このようにユダヤ教では基本的に、高徳であるためにこの世から離れるのではなく、神の律法に従ってこの世に高徳をもたらすことを求める。 キリスト教の多くもまた、神は人々に慈善を望むとするが、それだけが救済への道筋だという律法主義は、二契約神学以外のすべての支派で否定されている。一部のキリスト教宗派は、救済はイエス信仰への変容次第だと考えている。そしてその変容は、その人の信仰を目に見える形で証明(あるいは証言)するものとして、慈善行為という形で現れるというのである。特に正教会とカトリックにその傾向がみられる。一方、他の宗派はプロテスタントの多くを含め、救済に必要なのは信仰だけだと考えている。元来は「信仰」の定義の問題であって、実質的にはそれほど大きな差異はないと主張する者もいる。変容次第と考える派は一般に、「信仰」の語を「聡明な、心からの同意と服従」という意味で使う。つまり人が人生を転換させて神に向かって初めて、信仰が救済をもたらすのである(Ontotheology参照)。「信仰による救済だけ(ラテン語でソラ・フィデ)」を信じるキリスト教徒が定義する信仰は、暗黙のうちに存在論的なものとなる。単なる知的賛同は、子の派にとっては「信仰」を意味しない。信仰とは、定義上、人生を転換させることである。
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