伊那平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。 天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。 天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
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