伊那川電力の設立
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大正時代後半、木曽川の本流では木曽電気製鉄とその後身大同電力によって急速に電源開発が進んでいた。同社は1919年(大正8年)から1923年(大正12年)にかけて、桃山・須原・大桑・読書(よみかき)・賤母(しずも)の5つの大型水力発電所を木曽地域に建設する。並行して送電線網も整備し、これらの発電所の発生電力を名古屋・大阪方面へと送電した。 一方、中央製紙は1926年(大正15年)に樺太工業に合併された。合併後、樺太工業では北海道や樺太といった遠方から原料木材を調達するという不利な条件を抱える木曽工場を不況下で存続するのは不可能と判断し、1928年(昭和3年)7月工場閉鎖に踏み切った。工場閉鎖に際し樺太工業では電気供給事業とその設備を売却する方針を立てたが、それを受けて大同電力では当時土木課長であった石川栄次郎の主導で傍系会社「伊那川電力」を新設して事業を引き受けると決定した。新会社・伊那川電力株式会社は1928年11月19日、創立総会を開催して発足する。資本金は200万円で、初代社長には斎藤直武が就任した。この斎藤を含め、同時期大同電力へ吸収された尾三電力から従業者の多くが伊那川電力へと転籍している。本社は名古屋市東区七間町1丁目1番地に置かれた。 1928年12月1日、伊那川電力は樺太工業より田光発電所・橋場水力設備および送配電線・需要家屋内設備(電灯取付数3655灯)を引き継ぎ開業した。買収価格は117万5000円であった。継承後、伊那川電力ではただちに橋場水力設備の全面改修・発電所化に着手し、翌1929年(昭和4年)2月、2つ目の発電所となる橋場発電所を完成させた。橋場発電所には大同電力の送電線が引き込まれ、その発生電力は田光発電所の発生電力とともに大同電力によって名古屋方面へと送電されることとなった。
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