信美電力との合併と社名変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 14:56 UTC 版)
「木曽発電」の記事における「信美電力との合併と社名変更」の解説
伊那川電力の設立に先立つ1925年(大正14年)4月13日、資本金150万円にて北恵那電力株式会社が設立されていた。同社も伊那川電力と同様、大同電力が木曽川支流域の開発を目的に設立した傍系会社である。設立の段階では岐阜県側を流れる付知川の開発を計画しており、実際に2か所の水利権を得ていたが、調査の結果当時の経済事情では採算的に不利という結論となった。そこで付知川開発を後回しにして、不要になった工事用の与川発電所を大同電力から購入して再開発するという計画に改めた。この発電所は名前の通り、長野県側の木曽川支流与川に位置する。1925年8月7日、計画変更に伴って信濃と美濃の水力を開発するという意味で社名を「信美電力株式会社」と改めた。与川発電所の改修工事は1927年(昭和2年)1月に完成し、2月から大同電力への供給が始まった。 与川発電所の完成後、信美電力では周辺地域での電源開発計画に着手するが、不況かつ電力過剰の時代に差しかかって開発着手の見通しが立たなくなった。そこで親会社大同電力では、事業目的を同じくする伊那川電力と信美電力を統合する方針を立案。合併交渉は大同電力の慫慂で素早くまとめられ、伊那川電力が信美電力を吸収することとなった。合併契約は1932年(昭和7年)2月5日付で締結され、2月22日に両社は名古屋市内の本社(同一所在地である)にてそれぞれ臨時株主総会にて合併を承認。そして同年4月30日に契約通り合併が実行された。合併前の資本金は伊那川電力が200万円、信美電力が150万円であったが、配当率が前者10パーセントに対し後者8パーセントのため、合併比率は1対0.8に設定され合併後の伊那川電力の資本金は320万円となった。 1932年5月27日、信美電力合併の報告総会に続き開催の定時総会にて、伊那川電力は社名を「木曽発電株式会社」へと変更した。合併後、景気の好転を受けて1933年(昭和8年)10月、木曽川支流蘭川(あららぎがわ)の妻籠発電所の工事に着手し、翌1934年(昭和9年)12月に完成させた。次いで伊那川上流に未開発で残っていた地点にて相ノ沢発電所の開発準備を進め1936年(昭和11年)11月より本工事に着手、1938年(昭和13年)2月に完成させた。 その一方で、名古屋逓信局の意向に従って岐阜県東濃地方から長野県木曽地域にかけて散在する電気事業(木曽発電・東邦電力・矢作水力など計7社)を統合するという計画に参加することとなり、1938年8月1日、新会社中部合同電気へと大桑村における供給事業と配電設備・需要者屋内設備(電灯4345灯)を譲渡した。譲渡価格は7万余り。事業譲渡により配電事業がなくなり、大同電力へと電力を供給するだけの単純な会社となった。 なお初代社長の斎藤直武は木曽発電に社名変更した総会で専務となっていたが、翌1933年6月取締役に降格、代わりに大同電力社長の増田次郎が木曽発電でも社長となった。また1936年5月3日、本社を名古屋市東区東片端町3丁目13番地2へと移転している。
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