信綱の忠義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:40 UTC 版)
慶安4年(1651年)の家光の死の際に殉死しなかったことを江戸市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。他にも「弱臣院前捨遺豆州太守弱死斟酌大居士」と称され、「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」と皮肉られている。ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱の補佐を家光から委託されていたためであり、信綱は「二君にまみえず」とは違う家中に仕えることを指しており、先代に御恩を蒙っている者が皆殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している。 甲州流軍学を教える小幡景憲と学問の話をしたとき、信綱は「武田信玄は名将であっても、終に天下を取る人ではなかった。家康公は古今の名将である。よって信玄の兵法を習はんより聞かんより権現様の御武略の事を聞、四書五経をきかんより御代々の御法度を知たる人に聞給はば差当りて身の徳と成へし」と言った。 家光の小姓の時代のとき、他の小姓が務めをさぼりがちだったのに対し、信綱は常に詰所にあって主君の御用に間に合わないことは無かったという。 家光が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か事情を察していたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は江に向かって「(信綱が)今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという。
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