開発準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:36 UTC 版)
大正企業組合の調査の結果、愛知県と岐阜県にまたがる矢作川水系の河川にて水利権を申請し、まず1918年(大正7年)7月に岐阜県側、上村川の「第三水力」「第四水力」について許可を得た。続いて1919年(大正8年)3月には愛知県側、名倉川の「第一水力」および根羽川(矢作川上流部)の「第二水力」についても許可が下りた。さらに1920年(大正9年)4月には、追加出願していた上村川支流飯田洞川の「第六水力」についても許可されている。これら許可地点は矢作川水系の最上流部にあたり、下流側の第一水力(真弓発電所)は名古屋電灯が直接水利権を取得して串原発電所を開発した地点に隣接する。 これら矢作川水系の水力開発を実行するにあたり、当時の鉄道路線の終端である岐阜県岩村町(現・恵那市)と発電所建設地の上村(同左)の間にある木ノ実峠が資材輸送上の隘路となると予想されたため、峠越え区間に約8.9キロメートルの索道を通すこととなり、約13万6000円を投じて1919年11月にこれを完成させた。完成後、同年12月26日に資本金25万円(うち半額出資)で矢作索道株式会社を設立し、索道設備を同社へ譲渡している。 一方、岩村町までは中央本線大井駅(現・恵那駅)とを結ぶ岩村電気軌道経営の電気軌道(岩村電車)が存在したが、資材輸送を行うには電力や貨車など設備が不十分であった。同社は当時資本金30万円(払込額18万7500円)であり、10万円以上に及ぶ輸送力増強費の調達は困難なため、矢作水力は路線の直営化を決めた。両社間の合併契約は1919年11月12日に締結され、手続きを経て翌1920年3月3日に合併報告総会が完了した。合併に伴う矢作水力の増資は75万円である。合併後、矢作水力では1935年(昭和10年)まで軌道路線の経営を続けた(詳細は下記#軌道事業の推移参照)。
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