最初の富士北麓の開発計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:33 UTC 版)
「堀内良平」の記事における「最初の富士北麓の開発計画」の解説
かねてより富士山麓の北側一帯の土地開発を考えていた堀内は山梨出身の財界人と共に計画を立案し、1916年(大正5年)に山梨県知事となった山脇春樹の協力を仰いだ。山脇もこれに同調し、富士山麓の山梨県側を一大観光地とすべく堀内に取りまとめ役を要請した。 1918年(大正7年)、甲府市内で富士山麓開発準備委員会が、山梨県知事の山脇春樹、小野金六など山梨の政財界人を招いて開かれた。計画では、西湖、精進湖、本栖湖にまたがる県有林を別荘地として開発。大月から船津までの馬車鉄道を電化し、本栖湖から富士身延鉄道の下部まで電気鉄道を新設するものであった。 しかし、県有林に別荘地を開発するという計画に、「開発動機に不純の影あり」として世論の反対が強く、県議会も反対した。このため山脇の計画は頓挫することになった。
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