大橋図書館、日比谷図書館、宮城県立図書館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:12 UTC 版)
「伊東平蔵」の記事における「大橋図書館、日比谷図書館、宮城県立図書館」の解説
1899年(明治32年)9月10日東京外国語学校講師、1900年(明治33年)9月28日教授となり、1902年(明治35年)3月3日から東京美術学校・東京音楽学校でもイタリア語を教えた。 1902年(明治35年)田中稲城の推薦で私立大橋図書館建設設計に関わり、6月15日開館、19日主事となった。1903年(明治36年)一周年を記念して図書館事項講習会を開始し、日本における図書館員教育の嚆矢となった。 一方、1900年(明治33年)には東京市教育会調査部で図書館設立案に関わり、1905年(明治38年)東京市通俗図書館建設設計案調査委員、1906年(明治39年)9月10日日比谷図書館開発準備主事となり、1908年(明治41年)3月辞任、5月退職した。 1907年(明治40年)には宮城県知事亀井英三郎の依頼で宮城県立図書館の改善点を調査報告し、大橋図書館員中島胤男を主任に据え、1913年(大正2年)建物を改築した。 1912年(明治45年)9月頃腎臓炎が再発して腰痛を併発し、1913年(大正2年)3月外国語学校を退職した。校長村上直次郎による排斥ともいう。
※この「大橋図書館、日比谷図書館、宮城県立図書館」の解説は、「伊東平蔵」の解説の一部です。
「大橋図書館、日比谷図書館、宮城県立図書館」を含む「伊東平蔵」の記事については、「伊東平蔵」の概要を参照ください。
- 大橋図書館、日比谷図書館、宮城県立図書館のページへのリンク