軌道事業の推移
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軌道事業の推移
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詳細は「岩村電気軌道」を参照 前述の通り、矢作水力は1920年3月3日の合併報告総会をもって岩村電気軌道株式会社の合併を遂げ、同社が営む電灯電力供給事業に加えて中央本線大井駅(現・恵那駅)と恵那郡岩村町(現・恵那市岩村町)を結ぶ全長7.55マイル(約12.15キロメートル)の電気軌道、通称「岩村電車」を引き継いだ。この岩村電車は、岩村の有力者浅見與一右衛門の主導によって1906年(明治39年)12月5日に開業。路線の中間部にあたる本郷村飯羽間(現・恵那市岩村町飯羽間)に岩村川から取水する小沢発電所を設置して電源を得ていた。 矢作水力が岩村電気軌道を合併した目的が矢作川開発に向けた資材輸送経路の整備であることから、岩村電車を引き継いだ矢作水力はその設備改善を急いだ。まず電源面では、1922年頃より大井ダム近くに発電所を構える東濃電化から145kWの受電を開始し、小沢発電所を供給専用として受電を電車用の電源とするよう改めた(その後小沢発電所は1933年9月6日付で廃止)。また施設面では貨物輸送の利便性を高めるべく終点岩村停留場で線路を矢作索道の停留場に繋げている。さらに1926年4月には自社の矢作川水系の発電所に連絡する電車専用の小沢変電所を新設、電車用電源を増強した。 また直接の電車設備ではないが、沿線にある景勝地「小沢の滝」「鹿の湯鉱泉」の設備の改良も自社で行って旅客誘致に努めた。矢作水力岩村営業所が発行した岩村電車の1925年5月1日改正時刻表が載る「中央線旅行圖會(図会)」という資料によると、小沢停留場の近く、滝を望む位置に矢作水力直営の「小澤遊園地」があったという。 矢作水力による電車経営が10年目を迎えた1928年度の乗客数は年間18万8835人と初年度(1919年度)の1.3倍まで増加した。一方で貨物輸送は1922年度まで年間2万トンを超えていたが、自社発電所工事が終了すると資材輸送も激減し、1928年度にはピーク時の半分1万1867トンとなった。その後1930年代に入り並行路線の鉄道省明知線、現在の明知鉄道が着工され、1933年(昭和8年)から翌年にかけて開通すると、岩村電車はその影響を受けて1933年度下期には旅客数が4万6511人(前期より2万6000人減)・貨物輸送量が2428トン(前期比半減)にまで落ち込んでしまう。そこで矢作水力では、営業継続が困難になったとして1934年(昭和9年)3月31日限りで電車営業の休止措置をとった。そして並行する国有鉄道の開通に伴う損失であることか国から約11万8000円の補償を得て、休止1年後の1935年(昭和10年)1月19日付で路線を正式に廃止した。 矢作水力では1932年(昭和7年)8月1日に大井駅前と岩村町を結ぶ路線バスを開業しており(1934年時点で13.2キロメートルを定員8人のバス2台で運行)、岩村電車の休廃止後も引き続きこの地域での交通事業に従事したが、1937年(昭和12年)12月17日に恵南自動車へバス事業を譲渡して撤退した。
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