伊那・中津川の平田派と等持院事件とは? わかりやすく解説

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伊那・中津川の平田派と等持院事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:35 UTC 版)

足利三代木像梟首事件」の記事における「伊那・中津川の平田派と等持院事件」の解説

女性尊攘派志士として知られる信濃国伊那郡松尾多勢子中山道中津川宿から京都まで師岡正胤三輪田元綱宮和田勇太郎らの一行行動をともにしていた。多勢自身からくも捕縛の難をのがれ、井上馨協力のもと長州藩京屋敷にかくまわれた。 文久3年1863年2月23日美濃国中津川宿本陣主人市岡殷政松尾多勢子は殷政の従妹にあたる)夫妻平田銕胤・延胤上京知らせ聞き中津川宿問屋役だった間半兵衛秀矩とその娘、間亀吉(間家の本家跡取り半兵衛家は分家)、松尾多勢子長男松尾誠と次男竹村右衛門松尾家出入り久保田禎三とともに中津川出立して京都向かった。このとき、松尾多勢子はすでに京都到達しており、師岡らと行動にともにしていた。そのさなか、事件起こり松尾母と子長州藩京屋敷でたがいの無事を確かめることとなったのであるこののち多勢子は大坂大和伊勢から名古屋経由して帰郷し、「女丈夫」と称され討幕派のなかで重きをなすようになり、幕府追われるであった角田忠行相楽総三長谷川鉄之進らをかくまった平田銕胤父子一行は、中山道経て江戸へ帰る銕胤・延胤らは途中中津川宿市岡殷政間秀矩らの門人たちから熱烈な歓待受けたが、そのなかには宿馬籠宿の名主島崎正樹島崎藤村の父)も加わっていた。

※この「伊那・中津川の平田派と等持院事件」の解説は、「足利三代木像梟首事件」の解説の一部です。
「伊那・中津川の平田派と等持院事件」を含む「足利三代木像梟首事件」の記事については、「足利三代木像梟首事件」の概要を参照ください。

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