伊那・中津川の平田派と等持院事件
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「足利三代木像梟首事件」の記事における「伊那・中津川の平田派と等持院事件」の解説
女性尊攘派志士として知られる信濃国伊那郡の松尾多勢子は中山道中津川宿から京都まで、師岡正胤・三輪田元綱・宮和田勇太郎らの一行と行動をともにしていた。多勢子自身はからくも捕縛の難をのがれ、井上馨の協力のもと長州藩京屋敷にかくまわれた。 文久3年(1863年)2月23日、美濃国中津川宿本陣主人の市岡殷政(松尾多勢子は殷政の従妹にあたる)夫妻は平田銕胤・延胤上京の知らせを聞き、中津川宿問屋役だった間半兵衛秀矩とその娘、間亀吉(間家の本家跡取り、半兵衛家は分家)、松尾多勢子の長男松尾誠と次男の竹村多右衛門、松尾家出入りの久保田禎三とともに中津川を出立して京都へ向かった。このとき、松尾多勢子はすでに京都に到達しており、師岡らと行動にともにしていた。そのさなか、事件が起こり、松尾の母と子は長州藩京屋敷でたがいの無事を確かめることとなったのである。こののち、多勢子は大坂、大和、伊勢から名古屋を経由して帰郷し、「女丈夫」と称されて討幕派のなかで重きをなすようになり、幕府に追われる身であった角田忠行、相楽総三、長谷川鉄之進らをかくまった。 平田銕胤父子一行は、中山道を経て江戸へ帰る銕胤・延胤らは途中、中津川宿で市岡殷政や間秀矩らの門人たちから熱烈な歓待を受けたが、そのなかには隣宿馬籠宿の名主島崎正樹(島崎藤村の父)も加わっていた。
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