武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創
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「躑躅ヶ崎館」の記事における「武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創」の解説
信虎も川田館を本拠としていたが、『高白斎記』によれば永正16年(1519年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館移転を行った。移転の理由に関しては、石和館一帯が水害の常襲地であったためとする説もある。『高白斎記』によれば、8月15日には鍬立式が行われ、翌8月16日には信虎による見分が行われている。『高白斎記』によれば、信虎は12月20日に川田館から移住したという。『勝山記』永正16年・永正17年条においても、永正17年3月時点で館は完成していたと記している。『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったという。 信虎は新館の建設と同時に有力国人の城下町移住を行っている。有力国人は甲府への集住に対して抵抗し、『勝山記』によれば永正17年5月には栗原氏・大井氏・逸見氏らが甲府を退去する事件が発生している。また、館を守備する支城の築城も行われ、『高白斎記』によれば、永正17年6月には背後の積翠寺丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれ、大永3年(1523年)には城下西方の湯ノ山に湯村山城(甲府市湯村)が築城されている。 また、武田氏と関係の深い石和からは、笛吹市石和町市部に所在する、武田信光ゆかりの石和八幡神社を勧請し、躑躅ヶ崎館西部に府中八幡神社を創建した。府中八幡神社は武田信玄により甲斐惣社となり、国内の武田領国内の神社統制を担った。また、信光居館の鎮守と伝わる御崎明神も甲府へ移転させた。 信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。 信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。
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