信虎の甲斐追放
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天文10年(1541年)6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる(『勝山記』『高白斎記』)。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する。 信虎は今川義元の元に寓居することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。 信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、「堀江家所蔵文書」年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促している。晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。小和田哲男はこの義元書状を天文11年(1542年)に比定し、文中に見られる「天道」の語句から、信虎追放は「天道思想」に裏付けられた行為であるとした。一方で、平山優は「天道」の語句は晴信が信虎女中衆を駿河へ派遣する時期を易筮(えきぜい)により占い、「天道」はこの易筮の結果を指すものとして、これを否定している。 事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。さらには信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたためというものまで伝わっている。いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。 近年、平山優は『勝山記』などに記載された米や小麦の価格の変動から、経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘している。今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なった永正13年(1519年)に過去にない物価高騰が見られ、また享禄2年(1529年)にも小山田氏との対立に端を発する路次封鎖によって物価高騰がみられる。平山によれば、周辺諸国と激しく対立して四囲が敵であった時期もあった信虎期には路次封鎖や凶作がたちまち物価高騰や飢饉を招いたとする。そして、天文9年(1540年)に東海・甲信地方を襲った台風と推測される大規模風雨を原因とする凶作に伴って翌10年は当該地域は大飢饉に陥っている(天文の飢饉)。こうした状況に国内の信虎への反発が高まり、これに危機感を抱いた晴信とその周辺が信虎を追放したとする。『勝山記』などによる領民の歓迎は、晴信が「代替わり徳政」を実施したことも理由であるとしている。 また、信虎の悪行伝説はやはり荒唐無稽でそのままでは信じられない面があることが指摘される。更に、『勝山記』なども近い時代の史料ではあるが、年代記であり後に改変や挿入の可能性も指摘される。信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といった甲州流軍学のテキストの中で次第に作り上げられていった。信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが印象操作を行ったとも考えられている。
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