信虎の出生と生年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:53 UTC 版)
明応3年(1494年)もしくは明応7年(1498年)1月6日、甲斐源氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる。初名は信直(のぶなお)。 生年の明応3年説は江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述から逆算されたもので、江戸後期に編纂された地誌『甲斐国志』では武田氏に関する記述の多くが『甲陽軍鑑』に拠っており、これを追認している。また、昭和戦前期には廣瀬廣一が信虎の菩提寺である甲府市古府中町の大泉寺過去帳・位牌に記される「天正2年3月5日逝去81歳」から逆算して明応3年を生年としている。 明応3年説は昭和戦後期に磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、小和田哲男らによって支持されてきたが、2006年には秋山敬が『高白斎記(甲陽日記)』や『大井俣神社本紀』に記される明応7年正月6日であった可能性を指摘している。平山優も大正時代に原本は焼失したものの、『甲斐国志』にその引用が残されている古長禅寺所蔵の『武田信虎誕生疏』が『大井俣神社本紀』の記事を裏付けるものであるとしている。 なお、信虎の母に関しては古くは『甲斐国志』の記事により信縄正室の崇昌院と考えられてきた(人物部第三)が、一方で信縄側室の岩下氏の出身地である岩下村(現在の山梨県笛吹市春日居町岩下)に信虎の誕生屋敷があるとも記されてきた(古跡部第一)。ところが、廣瀬廣一が信虎の祖父である武田信昌の菩提寺であった永昌院の住持であった菊隠瑞潭の法語集である『菊隠録』の中に岩下氏を信虎の母、岩下越前守を信虎の母の兄とする付箋があることを指摘し、岩下氏生母説が有力となった。また、平山優は崇昌院生母説の根拠の1つとされてきた高野山十輪院の『武田家過去帳』にある彼女を「甲州武田信虎御母様」と表記に疑問を呈し、「御母様」という表現になっているのは崇昌院が信虎の生母ではなく、側室所生の信虎を正室である彼女の子として位置づけたことによるものである、と指摘している。また、平成20年(2008年)に山梨県笛吹市が実際に誕生屋敷の伝承地を発掘調査をしたところ、16世紀初頭の武家屋敷とみられる遺構の存在が確認されており、少なくても岩下氏の一族がここに屋敷を構えていた事実は確認されている。
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