法語集
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東本願寺高廊下掲示板に掲載された量深の法語。 選択本願の念仏とは 念仏申せば助かるということではない 念仏でなければ助からないということだ 自分がわからないから 信ずる信心がぐらつく われわれは知らなくても 仏に願いをかけられ 望みをかけられておる あるものをおそれ、ないものをほしがる、これが悪人の問題 相手を鬼と見る人は 自分もまた鬼である 仏様どこにおいでになりますか 南無阿弥陀仏と念ずる人の前においでになります 浄土は言葉の要らぬ世界である 人間の世界は言葉の必要な世界である 地獄は言葉の通じない世界である 往生の“生”は生まれるというほかに“生きる”という意味がある 人間は生死(しょうじ)の苦しみをのがれようとして、生死に苦しんでいる 如来は我なり されど我は如来に非ず 如来我となりて我を救いたもう 真宗大谷派三宝寺HPより転載 自分は正直なつもりであろうが、実はそんな人間が一番不正直な人間であろう われ如来を信ずが故に如来在しますなり 正しい信念というのものは、劣等感を捨てさせることができる 戦時下の言葉 弥陀の本願と天皇の本願と一致している
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法語集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 04:36 UTC 版)
自の喜びの深さは、他の喜びとなれることを知るところにあるようである。随喜されない喜びは眞の喜びではない。(『口語譯・教行信証』信の巻 領解) 悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。(『歎異抄領解』) やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる。 花びらは散っても花は散らない 形は滅びても人は死なぬ。 お念仏とは自分を発見する場所である。 わが日本人においては、陛下の御名において、その実の御徳が全現しておるのであります。それ故に国民は、陛下の御名において生き、陛下の御名において死することができるのであります。(『正法の顕現』) ※末尾に括弧のない句は、「しんらんWEB 法話集」より転載
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