出生から家督相続
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天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。幼名は勝千代。のちに、彦六郎、左金吾。 穴山氏は武田姓を免許される御一門衆に属し、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かったと考えられている。ただし、武田氏との同族意識は父の信友以上に強かったとされる一方、武田宗家の信玄側の甲斐領国支配あるいは家臣団統制に関する文書ではあくまでも「穴山氏」と表示されている。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。 『高白斎記』に拠れば、天文22年(1553年)1月15日には甲府館に移っており、これは武田宗家への人質であると考えられている。永禄元年(1558年)11月には河内領支配に関する文書が見られ、父の信友は同年6月から11月頃には出家しており、このころには家督交代がなされたと考えられている。
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出生から家督相続
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榊原氏は三河仁木氏の一族と自称し、後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。後に伊勢に残った本家筋の系統と三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。康政の系統は松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、有力な存在とは言えなかった。。 天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き榊原家の家督を相続している。この理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが定かではない。家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。62年に父の長政が死去し、長政の弟の榊原一徳斎が康政を養子として後見した。 永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
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出生から家督相続
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大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化し、父親順昭の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に戦国大名化していた。母は山田道安の娘・大方殿。 天文19年(1550年)、父が28歳で病死したため、叔父の筒井順政の後見の元、2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強く守護職の存在しない国であったが、永禄2年(1559年)から三好長慶の寵臣である松永久秀が侵攻し、永禄5年(1562年)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。さらに永禄7年(1564年)には叔父の順政は死去してしまう。 翌永禄8年(1565年)8月、三好三人衆と松永久通の軍勢が将軍足利義輝を殺害したが(永禄の変)、11月16日、松永久秀と三好三人衆は決裂してしまう。松永久秀は急遽、後ろ盾をなくした順慶の基盤が揺らいでいるところに奇襲を仕掛け、同11月18日、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった麾下の勢力が順慶から離れている。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃走した。一部の史料は河内国へ逃れたと伝えるが、あまり信憑性はないといわれている。 後に順慶は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏の居城である高田城を攻撃している。
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