出生から少女期
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イングランド国王ヘンリー8世はテューダー家王位継承を安泰ならしめる嫡出男子の誕生を熱望していた。王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリーだけだった。王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可が下りなかった。ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家(エンパイア)」であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。 アンは王妃の通例と異なり、妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している。歴史家アリス・ハントは、これはアンの妊娠が戴冠式の時点で既に明瞭になっており、彼女は男子を妊娠していると予想されていたためであったと指摘している。アンは1533年9月7日午後3時から4時頃にグリニッジ宮殿で女子を出産し、祖母に当たるエリザベス・オブ・ヨークおよびエリザベス・ハワードにちなんで名づけられた。期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉メアリーの嫡出子としての地位は失われていた。 エリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人(英語版)そしてドーセット侯爵夫人(英語版)、エクセター侯爵夫人が代母となった。 エリザベスの誕生後、アンは男子を産むことができなかった。彼女は1534年と1536年に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に送られた。アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、1536年5月19日に斬首刑に処されている。 この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された。アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが、彼女はエドワード王子を生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワード王子の邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣 (chrisom) または洗礼衣を捧持している。 その後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年にキャサリン・パーを王妃に迎えた。同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三王位継承法(英語版)が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された。キャサリン・パーとエリザベスは親密になり、1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』 (The Miroir or Glasse of the Synneful Soul) を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという。 エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン(英語版)夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りの(どの子供よりも)すこやかに成長されている」と書き記している。1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人ブランチ・ハーバート(英語版)に養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている。キャサリン・チャンパーノウン(英語版)(結婚後のキャット・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリー(英語版)が女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた。彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語、ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語とギリシャ語を学んでいる。グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカム(英語版)から教育を受けた。1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた。
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出生から少女期
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「フリーデリケ・ツー・メクレンブルク」の記事における「出生から少女期」の解説
メクレンブルク公カール2世とその最初の妻ヘッセン=ダルムシュタット公女フリーデリケの間の末娘として生まれた。父は1794年よりメクレンブルク=シュトレーリッツ分邦の統治者となった。父の妹シャーロットはイギリス王ジョージ3世の妃であった。フリーデリケと3人の姉たちは美人姉妹として知られ、ジャン・パウルは小説『巨人(ドイツ語版)』の中で彼女たちのことを「玉座におわす美しく高貴なる四姉妹」と讃えたが、中でも最も有名なのはフリーデリケのすぐ上の姉のプロイセン王妃ルイーゼである。 母が若くして亡くなると、その妹シャルロッテが1784年に父の後妻となったが、翌1785年には出産が原因で亡くなった。寡夫となった父は娘たちに必要な教育や世話を受けさせるため、子供たちの祖母ルイーゼの住むダルムシュタットに転居した。祖母は「プランセス・ジョルジュ(Princesse George/ゲオルク公子夫人)」として知られる文化人で、フリーデリケは次姉テレーゼ、三姉ルイーゼと一緒にこの祖母に養育された。祖母の庇護下にあり、祖母の雇った女子教育者サロメ・ド・ゲリュー(英語版)の教授を受けたことは、姉妹たちにとって非常に幸運なことであった。
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