出生から富豪へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 07:07 UTC 版)
陳は広東省広州府南海県西樵簡村にて誕生した。祖父は東南アジアから帰国した華僑で、中国初の機械式紡績工場を設立した陳啓沅(中国語版)であり、父親の陳蒲軒は裕福な絹商人であった。蒲軒には、廉伯、廉仲(中国語版)、汝恭、蒲生と4人の息子がおり、廉伯は長男であったものの、幼少期から同族で2番目の叔母へ養子に出されていた。 陳は最初に私立学校に入学し、1896年、陳が12歳のとき、祖父の影響で外国人と英語を学び、香港の皇仁書院(中国語版)を卒業し、イギリス国籍(英語版)を取得した。卒業後は広州に戻り、1900年、陳が16歳のとき、広州市の沙面島にある香港上海銀行(HSBC)広州支店にて勤務し始め、機転が利き聡明である上に英語が流暢であったため、重用され買弁へと昇格した。同時に実家の家業を継ぎ、1905年から絹糸メーカー「昌桟糸庄」のマネージャーを務め、広東商会や広州商務総会へ次々と加入し、これらの商工会議所で活躍した。1908年には、東南アジアの商人であった張弼士(中国語版)等と共に「広東保険公司」を設立し、助役を務めた。同時に広州の主要な絹商人に統一価格での購入と販売を依頼し、広州の生糸の販売を独占した。陳の生糸事業は急速に発展し、1910年には昌桟糸庄の資金が30万元に達した。 同年に発生したゴム株式恐慌(中国語版)が広州に波及した際には、HSBCのローンを利用して利益を得たほかに、銀インゴットを利用した投機ビジネスも行った。その後、HSBCを利用し、私鋳銭の銀貨を流通させ、金銀市場を操作した。絹産業以外にも、海運業や鉱業、製紙業、茶業に加え、桐油、豚、タバコ、竹製品、ござ等の特産品製造事業も手掛け、これらの事業の利益は10年で数百万元に達した。これにより、陳は中国有数の金融王となり、袁世凱から予二等嘉禾勲章(英語版)が授与された。 1915年に、陳はサンフランシスコ万国博覧会に向けて準備を担当する「巴拿馬万国商品賽会広東出口協会」の責任者や広東総商会会長を務めた後、広東絲絹協会、鉱業協会、輸出業協会の会長を務めた。軍閥時代の真っただ中であり、旧広西派の軍閥が広東省を占領していた1917年から1920年頃には、当時広東省長であった朱慶瀾や両広巡閲使兼督軍であった陸栄廷、海軍上将であった薩鎮氷らと交友を深めた。また、広州市茘湾区龍津西逢源路沙地一巷36号に自宅を建てた。この自宅には洋風邸宅の他に、洋風の別館、中華風庭園が造られた上、広州の産業界の第一人者らによって邸宅内に「茘湾倶楽部」が設立された。この倶楽部には、陳炯明などの有力者も出入りしていた。
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