張羨
はじめ零陵・桂陽太守(あるいは県長)を務め、長江・湘水流域の民心を大層つかんでいた。ただ性格的に強情で負けず嫌いだったので、荊州牧劉表は彼の人となりを軽蔑し、非常に無礼な対応をした。そのため張羨は劉表に対して恨みを抱いていた《後漢書劉表伝》。のちに長沙太守となった《劉表伝》。 建安三年(一九八)《後漢書劉表伝》、張羨は長沙・零陵・桂陽の三郡を合わせて劉表に叛逆した。劉表はこれを包囲したが、何年かかっても陥落させることはできなかった《劉表伝》。 五年春、袁紹が官渡において曹操と対峙すると、劉表は州を挙げて袁紹に呼応した。故(もと)の功曹桓階は張羨に告げた。「そもそも事業を行うにあたって、義を根本とせずに敗北しなかった者はありません。それゆえ斉の桓公は諸侯を率先して周王朝を奉り、晋の文公は叔帯を追放して周王を迎え入れたのです。いま袁氏が叛逆して劉表が呼応しておりますが、禍への道を取ったというべきです。明府(知事どの)が功名を立てて節義を明らかにし、幸福を守って災禍を遠ざけたいとお考えならば、彼らに同調してはなりません」《桓階伝》。 張羨「ならば、どちらに向けばよいのだろう」、桓階「曹公は劣勢とはいえ、義によって立ち上がっているのです。朝廷の危急を救い、王命を奉じて罪人どもを討伐するのですから、あえて逆らう必要がありましょうか。今もし四郡をこぞって三江を守り、彼が到来するのを待って内応してやれば、良いことではないですか!」、張羨「素晴らしい」。張羨が曹操のもとに使者を送ると、曹操は大いに喜んだ《桓階伝》。 劉表が張羨を攻撃したが、曹操は袁紹と連戦していて南方に来ることができなかった。劉表の攻撃は急激だったが、張羨はその最中に病没した。長沙郡では張羨の子張懌を立て、劉表に対して抵抗を続けた《劉表・桓階伝》。 【参照】袁紹 / 桓階 / 周王 / 叔帯 / 晋文公 / 斉桓公 / 曹操 / 張懌 / 劉表 / 官渡 / 荊州 / 桂陽郡 / 三江 / 周 / 湘水 / 晋 / 斉 / 長江 / 長沙郡 / 南陽郡 / 零陵郡 / 県長 / 功曹 / 太守 / 牧 |
張羨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 00:53 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動張 羨(ちょう せん、生没年不詳)は、中国の北魏から隋にかけての政治家・学者。本貫は河間郡鄚県。
経歴
若い頃から学問を好み、多分野に通じた。北魏に仕えて蕩難将軍となった。孝武帝に従って関中に入り、銀青光禄大夫に累進した。宇文泰に召されて従事中郎となり、叱羅氏の姓を賜った。司職大夫・雍州治中・雍州刺史・儀同三司を歴任して、虞郷県公の爵位を受けた。司成中大夫となり、国史の撰述をつかさどった。北周では公卿に武将が多かったため、学問を知る者が少なく、学問に通じた張羨は重んじられた。後に老年のため隠退して邸にこもった。隋が建国されると、文帝に召されて謁見を受けることとなった。文帝は老体をいたわって拝礼しないよう命じ、昇殿を助けさせ、宴会に同席して久しく語らい合った。張羨は上表して文帝に倹約を勧めた。まもなく死去した。享年は84。滄州刺史の位を追贈された。諡は定といった。著書に『老子』『荘子』の義を撰した『道言』52篇があった。
子に張煚があった。
伝記資料
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