袁尚との内戦とは? わかりやすく解説

袁尚との内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:51 UTC 版)

袁譚」の記事における「袁尚との内戦」の解説

建安7年202年)、袁紹最期まで後継者明確に指名することなく病没した。袁紹軍幕僚郭図辛評袁譚後継者推し衆目年長袁譚支持であった記されている。しかし同幕僚であった逢紀審配は、郭図辛評との個人的対立などもあり、袁紹生前寵愛理由袁尚後継者として強硬に擁立したまた、審配らは袁紹遺命偽造した記されている。 一方袁譚青州から鄴へ引き返してきたが、後継宣言する袁尚反発して黎陽駐屯し車騎将軍自称した曹操黎陽攻め込んでくると、袁譚袁尚援軍要請した。しかし袁尚がこれを拒否したため、怒った袁譚袁尚派の逢紀殺害してしまった。これにより両者の仲はさらに険悪化し、決裂時間の問題となった結局袁尚自身来援してともに戦った。 翌8年203年)春、袁譚袁尚曹操との五ヶ月間に及ぶ戦闘の末、黎陽放棄した曹操は鄴まで進撃するが、袁尚逆襲をうけて許へ敗退した。この時袁譚は、袁尚向かって援軍支援の不手際をなじるとともに渡河中の曹操追撃しようと提案するが、退けられた。袁尚袁譚軍に戦後物資補填をせず、ここに決裂決定的となった郭図辛評らの助言後押し受けた袁譚が鄴城外門へ先制攻撃をし、同年8月袁譚袁尚反撃を受け敗北し南皮撤退した。そこへ王修青州兵士連れて来援し「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕切り落とし敵方対し交戦準備整ったためいつでも受けて起つと、公言するのと同等愚行でありますぞ」と諭して佞臣郭図辛評を指すか)を斬って袁尚和睦することを進言したが、袁譚は聞かなかった。 その後袁譚袁尚攻撃を受け平原追い詰められたため、郭図進言もあって、やむなく曹操降伏することを決断した。その印として、彼の娘が曹操の子曹整縁組している。同年10月曹操袁譚味方し出陣したため、袁尚慌てて鄴へ引き揚げた。しかし、袁尚軍の呂曠呂翔はこれに反し曹操袁譚寝返ってしまった。袁譚は、この2将を取り込もうとしたが、結局失敗している。

※この「袁尚との内戦」の解説は、「袁譚」の解説の一部です。
「袁尚との内戦」を含む「袁譚」の記事については、「袁譚」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「袁尚との内戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「袁尚との内戦」の関連用語

1
8% |||||

袁尚との内戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



袁尚との内戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの袁譚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS