袁尚との内戦
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建安7年(202年)、袁紹は最期まで後継者を明確に指名することなく、病没した。袁紹軍幕僚の郭図・辛評は袁譚を後継者に推し、衆目も年長の袁譚支持であったと記されている。しかし同幕僚であった逢紀・審配は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。また、審配らは袁紹の遺命を偽造したと記されている。 一方、袁譚は青州から鄴へ引き返してきたが、後継を宣言する袁尚に反発して黎陽に駐屯し、車騎将軍を自称した。曹操が黎陽へ攻め込んでくると、袁譚は袁尚に援軍を要請した。しかし袁尚がこれを拒否したため、怒った袁譚は袁尚派の逢紀を殺害してしまった。これにより両者の仲はさらに険悪化し、決裂は時間の問題となった。結局袁尚自身が来援してともに戦った。 翌8年(203年)春、袁譚・袁尚は曹操との五ヶ月間に及ぶ戦闘の末、黎陽を放棄した。曹操は鄴まで進撃するが、袁尚の逆襲をうけて許へ敗退した。この時袁譚は、袁尚に向かって援軍や支援の不手際をなじるとともに渡河中の曹操を追撃しようと提案するが、退けられた。袁尚は袁譚軍に戦後の物資補填をせず、ここに決裂が決定的となった。郭図・辛評らの助言・後押しを受けた袁譚が鄴城外門へ先制攻撃をし、同年8月、袁譚は袁尚の反撃を受け敗北し、南皮に撤退した。そこへ王修が青州の兵士を連れて来援し「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つと、公言するのと同等の愚行でありますぞ」と諭して、佞臣(郭図・辛評を指すか)を斬って袁尚と和睦することを進言したが、袁譚は聞かなかった。 その後、袁譚は袁尚の攻撃を受け平原に追い詰められたため、郭図の進言もあって、やむなく曹操に降伏することを決断した。その印として、彼の娘が曹操の子曹整と縁組している。同年10月、曹操が袁譚に味方し出陣したため、袁尚は慌てて鄴へ引き揚げた。しかし、袁尚軍の呂曠・呂翔はこれに反し、曹操・袁譚に寝返ってしまった。袁譚は、この2将を取り込もうとしたが、結局失敗している。
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