袁譚配下の幕僚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:58 UTC 版)
袁紹が韓馥から冀州を譲られた初平2年(191年)前後に仕官したと思われる。荀諶・張導(字は景明)・高幹・郭図らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。なお、曹操軍の郭嘉は同県の出身、同僚の郭図や荀諶、曹操軍の荀彧らとは同郡の出身である。 辛評が袁紹陣営において台頭してきたのは、建安5年(200年)の官渡の戦いで袁紹が敗れてからである。戦後に審配が孟岱・蔣奇の讒言を受けると、辛評は郭図と共に孟岱らを支持し、一時的に審配を失脚に追い込んだ。しかし、審配は逢紀の弁護を受け、辛うじて復権した。 建安7年(202年)夏、袁紹が後継者を指名しないまま死去すると、辛評と郭図は長男の袁譚を後継者にしようとした。しかし、辛評と郭図が権力を握ることを恐れた審配と逢紀は、袁紹の生前の寵愛を根拠に三男の袁尚を強引に後継とした(『後漢書』袁紹列伝によると、袁紹の遺命を偽造したという)。このため袁氏内紛が勃発したという。 翌8年(203年)、辛評は郭図と共に、審配への個人的敵愾心を動機として、袁譚に袁尚への先制攻撃を唆し、これを実施させた。だが結果的に、袁譚は袁尚軍の反撃に敗北し、平原に追い込まれた。なお袁譚軍の王修は、佞臣を斬って袁尚と和解するよう説いた。
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