袁術・呂布の配下として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:20 UTC 版)
若い頃から地方官を歴任した。建安元年(196年)、劉備から茂才(秀才)に推薦された後、袁術に仕えた。常に正論でもって談し、袁術から敬意を持って遇された。 しかし建安2年(197年)、袁渙は袁術が呂布に敗戦した際に捕虜となってしまい、そのまま呂布に仕えることになった。ある時、呂布が袁渙に劉備を罵倒する手紙を書かせようとしたが、袁渙はこれを拒否した。このため呂布は武器を袁渙に突き付け、無理やり書かせようとした。しかし袁渙が顔色を変えることなく、逆に冷静さをもって「人を辱めるのに文書でもってしても、その人(劉備)の徳が高ければ対する者(呂布)が辱められるのです」と説得したため、呂布は恥じ入って引き下がった。 建安3年(198年)12月、呂布が曹操に滅ぼされた。陳羣ら他の降伏者たちが曹操に平伏する中、袁渙だけは曹操と対等の挨拶をした。また、曹操は降伏者に物資を分け与えた。この時、他の者が車一杯に物資を詰め込む中、袁渙は書籍数百巻と僅かの食料を引き取っただけだった。これらにより、袁渙は曹操から大いに尊重されたという。
※この「袁術・呂布の配下として」の解説は、「袁渙」の解説の一部です。
「袁術・呂布の配下として」を含む「袁渙」の記事については、「袁渙」の概要を参照ください。
- 袁術・呂布の配下としてのページへのリンク