袁胤とは? わかりやすく解説

袁胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 13:51 UTC 版)

袁胤
後漢
丹陽太守
出生 不詳
豫州汝南郡汝陽県
死去 不詳
拼音 Yuán Yìn
仲績
主君 袁術
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袁 胤(えん いん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家・武将。仲績豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。従兄は袁術

生涯

袁術の下にいた孫策興平元年(194年)からの討伐で、劉繇らを破って江東を平定した。その後、袁胤は袁術の命により、周尚(周瑜の従父)の後任として丹陽太守に着任した。しかし、袁術による丹陽支配を快く思わない徐琨に攻撃され、袁胤は丹陽から追放された。怒った袁術は、宗部一揆(宗教共同体の一種)の首領の祖郎山越を扇動させ、孫策を攻撃させた。しかし、これも失敗に終わった。

建安4年(199年)に袁術が死去。袁胤は袁術の女婿である黄猗らとともに、袁術の柩とその子の袁燿や袁燿の生母・姉妹らを守ることになった。袁胤らは、かつて袁術配下だった劉勲の元へ逃れ、劉勲の本拠の皖城に身を寄せた。

しかし、劉勲が軍を出している隙に皖城は孫策に攻め落とされ、袁胤ら袁術の遺族たちは保護された。そして、袁胤らは呉郡(当時の孫策の本拠地)に護送されている。後に袁燿が孫氏に仕え、その姉妹の一人の袁氏孫権の側室となったが、袁胤の消息は不明である。

三国志演義

小説『三国志演義』では、袁術の甥となっている。没落した袁術に最期まで付き従うが、袁術は兵糧が尽きて野垂れ死にするように落命する。袁術の死後はその遺族を守るが、曹操軍の徐璆によって皆殺しにされてしまう。その際に玉璽も奪われ、曹操に献上されたことになっている。

参考文献

  • 三国志』呉書1孫策伝 呉書5孫権徐夫人伝 呉書6孫輔伝 呉書9周瑜伝
  • 三国演義

袁胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「袁胤」の解説

袁術の甥。袁術と共に落ち延び彼の最期看取るその後行き倒れていたところを曹操軍徐璆発見され玉璽奪われてしまった。当初徐璆から宮仕えの者と間違われた。

※この「袁胤」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「袁胤」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

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