袁術からの離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:29 UTC 版)
197年、孫策の力が強大化するのを怖れた袁術は、一族の袁胤を丹陽太守に任じ、孫策への備えとしようとした。しかし、袁術による丹陽支配を快く思わない孫策配下の徐琨に攻撃され、袁胤は丹陽から追放された。またこの時期、袁術は皇帝になる計画を進めており、孫策はそれを聞くと袁術に手紙を送り諌めた。袁術はそれを無視し、袁術は寿春を都として皇帝に即位した。これを契機に孫策は袁術を完全に見限り、独立を決意した。孫策の独立を聞くと、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて再度孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。孫策は、朝廷から袁術討伐の詔勅を被り、討逆将軍に昇進して呉侯の称号を受けた。
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