董卓暗殺と三日天下
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董卓が実権を掌握し専横を極めると、司徒の王允は、士孫瑞、黄琬 とともに董卓暗殺を企て、呂布を仲間に引き込んだ。初平3年(192年)4月、董卓が皇帝の病の快癒を祝う為宮門に入ろうとすると、詔書を懐に忍ばせた呂布は李粛等十余名を偽衛子として待機させ、董卓の入門を阻んだ。驚いた董卓が呂布を呼ぶものの、呂布は詔であることを告げ董卓を殺害、その三族を皆殺しにし、董卓派は皆処刑された。 呂布は董卓と父子の関係を結んでおり、常に董卓の傍らにあって護衛をしていたが、些細な事で腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことがあり、密かに恨んでいた。また、董卓の侍女 と密通していたため、それが露顕することを恐れて不安に思っていた。ある時呂布が交友のある王允を訪ね、董卓に殺されかけた事を話すと、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けた。呂布は最初董卓とは父子であると固辞したものの、王允に説得され暗殺に加わった と史書は記す。また、董卓が長安に遷った事で自分の権勢が崩れる事を恐れた事が理由とする論文がある。 董卓殺害後『後漢書呂布伝』によると、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた。(正史三国志.魏書呂布伝では、奮威將軍.假節.儀比三司.進封溫侯。とある。)しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎討ちで破る も防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かったようである。尚、呂布と涼州軍の関係については異説が有り、『後漢書』「王允伝」では呂布はむしろ涼州軍赦免を提案したとされる。 呂布は王允を助けようとしたが叶わず、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。
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