董其昌と南北二宗論
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明後期の理論家である何良俊(1506 - 1573年)は文徴明を敬愛していた。何良俊は『四友斎叢説』等の著作の中で、行家(職業画家)に対する利家(文人画家)の優位を説き、絵画において大切なものは「韻」であるとした。すなわち、絵画には手先の技術だけではなく、それを描いた人の人格、気品が現れていることが肝要であり、したがって文人、つまり教養と徳のある人物の描いた絵が優れているとする。また、利家が技術を学ぶことによって行家を兼ねることはできるが、逆に行家が利家を兼ねることはできないとした。高濂(16世紀後半)は、著書『燕間清賞箋』において、弘治・正統年間の浙派の粗放な筆法、具体的には張路、蒋嵩、汪肇、鄭顛仙、鍾礼らのそれを「狂態邪学」という厳しい言葉をもって批判した。このように「利家 = 呉派 = 文人画」を「行家 = 浙派 = 職業画家」の上に置く理論は、後述の董其昌の「南北二宗論」に引き継がれていく。 董其昌(1555 - 1636年)は江蘇華亭(松江)の人。字は玄宰、号は思白、香光居士。万暦17年(1589年)首席進士となり、職位は礼部尚書(文部大臣相当)にまで上がった。『画旨』『画禅室随筆』などの著書があり、明末期の画家、書家、理論家として、その後の中国絵画に実作、理論の両面で多大な影響を与えた人物である。董にとって絵画とは「古人に倣う」ものであり、五代〜北宋の董源・巨然、宋の米芾・米友仁、元末四大家らの文人画系列の絵画を学ぶべきものとした。また、画家にとって「万巻の書を読み、千里の路を行く」ことが必要であり、「天地を以て師となす」「心を以て物を写し、丘壑(きゅうがく)は内に営む」べきであるとした。董はまた「南北二宗論」を唱えたことで著名である。南北二宗とは、中国の禅仏教に北宗禅と南宗禅の2派があるように、絵画にも2つの流れがあるとして、唐時代以来の絵画の流れを北宗画と南宗画に分けたものである。董の説によれば、北宗画とは唐の李思訓・李昭道の青緑山水画に始まり、宋の趙幹・趙伯駒(ちょうはくく)・趙伯驌(ちょうはくしゅく)を経て南宋画院の馬遠・夏珪に至る流れであり、南宗画とは唐の王維の渲染のある水墨山水に始まり、荊浩、関同、董源、巨然を経て、宋の米芾・米友仁、元末四大家に至る流れであるという。董は南宗画、すなわち利家(文人)の画に価値を置き、行家(職業画家)の絵である北宗画は学ぶ価値がないとした。こうした論旨から、この論は「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん、南をたっとび、北をおとしめる論)とも言われる。この論については、たとえば、北宗画 = 行家に分類されている李思訓が、実際は唐の皇族であるなどの矛盾点も指摘されているが、董其昌の与えた影響は大きく、南宗画・北宗画という分類法は数百年後の今日まで中国絵画の見方を規定している。 董其昌自身の絵画は、抽象的・構成主義的であることが指摘されている。すなわち、董の山水画の画面からは、墨の濃淡の変化や明暗のニュアンスは意図的に排除され、白の画面に黒の均質の線をもって山水が構成されている。白と黒のモノクロームの絵画である水墨画には、写実的な描写を指向する流れと抽象的な構成を指向する流れとがあるが、董の山水画は明暗や濃淡のグラデーションによる大気や遠近感の表出を指向したものではなく、白い平面上の黒の形態による抽象的構成を指向したものである。董は多くの作品を紙に描いているが、これは、白い画面上の黒の線による構成をより際立たせるためには絹よりも紙が効果的であるためだといわれている。
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