遷都の計画
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通常遷都を行う場合は実行の数年前に天皇が遷都の詔を発し、十分に準備を行って移動するものである。例えば和銅3年(710年)に行われた藤原京から平城京への遷都の時は、まず3年前の慶運4年に文武天皇が群臣たちに遷都について詮議させ、2年前の慶運5年(708年)に元明天皇が遷都の詔を発した上で実施している。しかし恭仁宮への遷都が正史に出てくるのは、聖武や群臣が東国行幸中の天平12年12月6日(遷都の9日前)に「右大臣橘諸兄が遷都に備えて恭仁郷を整備する」という記録が最初という異例な状況であった。しかし聖武が遷都の前年の天平11年から恭仁宮の予定地周辺を三度訪れたという記録があり、その頃から遷都への構想を持っていたと考えられる。即ち天平11年3月2日から5日に恭仁宮予定地の南隣にある甕原離宮に行幸した後、3月23日には元正太上天皇を伴って再度行幸し3日間滞在している。2回目の行幸は、聖武に皇位を譲ったとはいえ未だに大きな政治的影響力を持つ元正太上天皇に遷都構想の了承を得るためだったとされる。翌天平12年5月10日には恭仁宮予定地に近くにあった橘諸兄の相楽別業を訪れおり、その際に諸兄は宴を開いて天皇をもてなした。
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