遷都に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 06:06 UTC 版)
2003年夏より、ピンマナの西数キロの軍用地だった場所で新行政首都の建設が始まるも、移転計画が明らかになったのは2005年の中頃であった。遷都は急過ぎて不可能とする見方も多かったが、ミャンマー政府は同年11月7日に移転を開始し、省庁・政府機関の職員達はトラックでヤンゴンからピンマナへと向かった。翌2006年3月27日の国軍記念日には新首都で内外の報道陣を招き軍事パレードが開かれている。この席で、ミャンマー政府は首都地域をネピドー(, Naypyidaw, 「王都」「首都」の意)と呼ぶことを公式発表、10月10日には公式に遷都を発表した(日本の外務省ではネーピードーとしている)。 遷都の理由は公表されていないが、メディアや研究者による見方を以下に記述する。 旧首都ヤンゴンは人口が密集し交通も混雑している。市内にはもはや政府機関を拡張するための余地がないため。 アメリカからその専制を批判されているミャンマーが、イラク戦争同様に侵攻を受けた場合、内陸に位置するネピドーは海に近いヤンゴンより占領されにくく、より戦略的に有利な位置にあるからだという見方。 ネピドーはカレン州、シャン州、チン州など少数民族の多い州(ピーネー)に近く、かつ上ビルマと下ビルマの結節点に位置しており、国内の治安維持を重視したという説。 元首で上級大将のタン・シュエのお抱え占星術師の命令によるものだという、ミャンマーの社会で広く信じられている説。タン・シュエの運勢が下降しており、早急に首都を移転させないと政権の命運が尽きるという予言があったとされる。2005年11月9日のマレーシアの英字紙、ニュー・ストレーツ・タイムズは『首都移転の影に占星術師』のタイトルの記事を掲載している。また、2011年8月9日の日本のテレビ番組、教科書にのせたい!ではこの説が放送された。 軍事政権は都市部の市民を恐れているとの説。高い教育を受けた国民や海外留学から帰った国民の増加により、そういった人々の多く住むヤンゴンで市民運動や革命が起こることを軍事政権は危惧している。それゆえ、政権中枢をネーピードに移転させ政権の強い地盤とし、都市部で革命が起こっても、その影響を受けにくいネーピードから軍を送り、早期に鎮圧できるようにしているというもの。 また、遷都を可能にした背景として、天然ガス輸出による外貨収入増が挙げられる。タイへのガス輸出が軌道に乗ったことで、ミャンマー政府は移転に必要な財源を確保することができた。
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